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涼月

1939年(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦。1942年(昭和17年)12月29日に三菱重工業長崎造船所で竣工。竣工後は第61駆逐隊に編入され艦隊護衛、船団護衛、輸送任務に従事した。1944年(昭和19年)に2度被雷。そのためマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦には参加できなかった。

1945年(昭和20年)の坊ノ岬沖海戦には「大和」の護衛として参加。艦橋前に150kgと推定される爆弾1発を受け損傷し、低速後進[5]で佐世保に帰着する。完全復旧は断念され応急修理を施した上で佐世保相の浦に係留、陸上より電気を引き第3砲塔を使って防空砲台となった。佐世保が空襲された際にP51を1機撃墜している。

戦後は損傷のため復員輸送に使用されず1948年(昭和23年)に解体。船体は「冬月」「柳」とともに北九州市若松港の防波堤としてそのまま活用され、地元では軍艦防波堤と呼ばれた。

本艦は3度の被害にあったがいずれも生還し秋月型駆逐艦の中で1番の長命となった。片桐大自は「雪風とまた違った意味での武運艦」と評している。


爆弾が命中、艦首をもぎ取られた涼月は、必死の応急作業を行いつつ、後進で佐世保に帰投しようとする。

(前略)
佐世保まで9ノットで18時間。その間を、後進で、逆向きに、人力で舵を操りながら、爆弾の破口からは、まだ煙を出しながら、すこしもくじけず、元気な360人が、「フネを沈めるな」を合いことばに、がんばった。

とうとう涼月は、佐世保に着いた。
「入港用意」のラッパが涼月で鳴った。先着の冬月、雪風、初霜がそこにいた。再び見ることはあるまいと覚悟を決めていた故郷の春の緑が、涼月の乗員達の目にしみた。しかし彼らには、それを見つめる余裕はなかった。ブイにつなごうとしたとき、急に、船脚が深くなりはじめたのに気付いた。艦が沈みかかっている!

港務部や、工廠から、曳船が、サイレンを吹き鳴らしながら、全速力で駆けつけてきた。そのうちの一隻は、Uターンして、ドックの扉をあけに戻った。一分一秒が貴重だった。船が精根つきかけていた。3隻の曳船が、1隻は艦尾を、2隻は両舷から涼月を横抱きにして、強引に、扉を開けたドックに引っぱりこんだ。涼月がドックにはいるやいなや、すぐ扉をしめ、急いでドックの水を排水しはじめたが、涼月は、もうそのときには、ズズズズとドックの底にすわりこんだ。水がかい出されるわずかな時間が待ちきれず、ドックのなかで、がっくりと沈没したのだ。

「感動しました。われわれもがんばったが、フネもがんばってくれたんです。 フネも生きているんです。われわれのなかまなんです。われわれ駆逐艦乗りにとって、 フネと人は、一体なんです。 やったなあ、涼月。すごかったぞ。水がかい出されたあと、私は、ドックの底に降りていって、 フネの横腹を手でたたきました。下士官が4、5人、同じようなことをやっていました。きっと、私と同じことをいっていたのでしょう――」
鴫之沢砲術長が、目をうるませて、そういった。

砲術長はそのあと、艦内を調べていたとき、一番砲の弾薬通路の左舷側、水線下にある一へやに、下士官、兵長、兵の3人がたおれているのを発見した。見ると、そのへやは、丸太で隔壁をささえ、カスガイを打ち、完全に海水を防ぎとめてあった。砲術長は、電気にうたれたように、その3人の遺体にむかって、頭をたれた。涼月は、前に10度傾いていた。それ以上、前部が沈下すれば、沈没はまぬがれなかった。この3人は、最後までこのへやの空間を守って、浮力がそれ以上減るのを、身をもって
防いでくれていたのだ。

アメリカ海軍は、田中司令官を、負けじ魂の駆逐艦乗りとたたえた。しかし駆逐艦乗りの負けじ魂は、人だけのものではなかった。人も艦も一体だった。涼月が、それを証拠立てた。そしてそれは、涼月この3人の乗員たちのような、駆逐艦乗りらしいめいめいの判断と献身とでささえられていたのであった


『壮烈!水雷戦隊』

8795855のコピー

夏が来れば戦争について考えます。
いつもの調子でないのもちょいちょいと入れながら、人生まじめに考えてみないとね。
基本的に戦争はよくないけど、日本でやってる教育は戦争という事実についてはいいけど、なぜ戦争に陥ったかの記述が薄く、当時の日本ではどういう機運が高まっていたかなどではミスリードしやすいあやうい記述が多い点が間違っていて、報道にも少しバイアスがかかっていると思ったほうがいい。

だからってどうもしないけど、少なくともワタシはコドモにいろいろおしえるつもり。
学校で教えないことがたくさんあるということ。
その中のひとつがコレ。

松尾敬宇海軍中佐 熊本県出身  海軍兵学校第66期
昭和17年5月31日歿、満24歳

憂国の烈士・三島由紀夫は『行動学入門』の中に、“行動の美の典型”として「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったがハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこから現れ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が伝えられているが、このような場合にその行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」と記した。

この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(当時大尉)その人なのである。中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、遠くシドニー港の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。

中佐は壮途につく直前(昭和17年3月29日)、両親と兄姉を呉(広島県)に招き一夕を共にすごす。この時、父から贈られたのが前記の『行動学入門』に「日本刀をふりかざし‥‥‥」と記された伝家の
菊池千本槍(短刀に柄のついたもの)である。その夜、中佐は「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床に就く。二十四年育て上げ、唯一筋に国に捧げまつろうとする吾が子の肌の温もりに、今宵が最後の夜を予感、春寒を遮るようにその五体をわが胸に引き寄せる母であった。

昭和17年6月5日の大本営発表によれば「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、5月31日夜、濠州東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、湾内突入ニ成功、敵軍艦一雙ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル我特殊潜航艇中三雙未ダ帰還セズ」と。

この大胆不敵な作戦は濠州の人々の心胆を寒からしめたが、日本海軍軍人の忠勇武烈に深く感銘した濠州海軍は6月4日、松尾艇、翌5日に中馬艇(海軍中佐中馬兼四)を引き揚げると共に、艇内から収容した四勇士を6月9日、海軍葬の礼を以って弔ってくれた。

この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー地区海軍司令官ムアーヘッド・グールド少将は『勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである。これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか』と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのである。

戦後、濠州海軍は松尾艇、中島艇を切半して一艇とし、首都キャンベラのオーストラリア連邦戦争記念館に安置、御遺品と共に丁重に展示している。「この勇気を見よ!」と説明が特筆大書され、内外の参観者に大きな感銘を与えているとのことである。

昭和43年4月、中佐の母堂は濠州へ答礼感謝の旅に出る。83歳の老母は「訪豪に当たりて」の一文を草した。『昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかわらず、世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、その上遺骨は日章旗で覆い、丁重に遺族へ届けていただいて、10月9日、鎌倉丸(戦時交換船)横浜に着くや全国民の感激はとても言葉に尽くせませんでした。(中略)ただ貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日は遥かに貴国を拝し、感謝合掌しておりました。この度はからずも、松本先生(地質学の泰斗松本唯一博士)始め多くの方々の御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、こよなき喜び、かつ光栄に存じます。』

とつ国のあつき情けにこたえばやと老いを忘れて勇み旅立つ

母堂まつ枝刀自は会う人の全てを魅了する玲瓏玉の如きお人柄で、その上、素晴しい歌人でもあった。訪豪の十日間、“勇士の母”として濠州は海軍をはじめ朝野を挙げて、あたかも国賓を迎えるごとく歓迎した。

一行は中佐ゆかりの戦跡を巡るが、狭い湾口を見詰めた母堂は「よくもこんな狭いところを‥‥‥母は心から誉めてあげますよ」とつぶやき、湾内では戦死した6名の勇士の名を心に叫びながら、故郷の押し花、色紙と日本酒を海にまいた。湾内を見下す断崖からは、中佐の許嫁だった女性から託された和歌二首を記した紙片を海に投じた。その人の真情が母堂の手で手向けられたのである。中佐への何よりの供養であったろう。連邦戦争記念館では、中佐の御遺品の数々に涙を注ぎ、愛艇を撫でさすり、菊池神社の神酒と花輪を供えた母堂は、

愛艇を撫でつつおもふ呉の宿名残りおしみしかの夜のこと

と、吾子に添い寝をした最後の夜を回想する。そして館長からは、中佐が最後まで締めていた血染めの千人針などの御遺品が返却された。一行の行く先々に大勢の記者が待ち構えていて、新聞は母堂の各地での写真と詠歌をトップ記事で競って報道したため、濠州国民を感動の渦に巻き込んだ。

昭和55年(1980)1月24日、母堂は95歳の一生を終えた。27日の葬儀には、中佐の忠烈を讃え、母堂を慕う400余人が辺鄙(へんぴ)もいとわず全国から参列。オーストラリア大使館からの弔電をはじめ、霊前には数々の弔辞が述べられ、詩吟、和歌などが献詠されて、葬儀は3時間に及んだという。


戦争がどういうものなのか実際のところ私は知らないけど、すくなくともあったことについては教えようと思う。それに、じぶんがもしこういう事態にあったときには、身の処しかたについて参考にはなると思う。

立派です。実に立派です。
そして大変つらいであろうと思います。だからこそ知らなければとも思います。

Edward Sylvester Morseのコピー

日本人はとても正直であるー1877年(明治10)6月下旬

人々が正直である国に居る事は気持ちが良い。私は財布や時計に注意しようとは思わない。
私は錠をかけぬ部屋の机の上に小銭を置きっ放しにするが、日本人の子供や召使は
一日に何度も出入りするのに触れてはならぬ物には決して手をつけない。
私のコートをクリーニングに持って行った召使は、なんとポケットの一つに入っていた小銭に気付いて
すぐに戻ってきたのである。また次の時にはサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って戻ってきた。
この国民も、いわゆる文明人としばらく関わっていると盗みを働く事があると聞くが、
内陸では不正直な事はまず無い。条約港においても同様である。日本人が正直である事の最大の
証拠は、3000万人の国民の家に錠も鍵も閂も、錠をかける戸さえも無いという事実である。
昼間は、すべる衝立が唯一のドアであるがそれも10歳の子供でも引く事が出来、
或いは穴をあける事が出来る程弱い構造なのである。

大西瀧治郎のコピー

『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
 一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
 二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。(後略)』

大西瀧治郎中将特攻作戦の真意

Jon Dahl Tomassonのコピー


デンマークのサッカーチームについてちょっといい話。
いまさらの感もあるが・・・。(しかも、ホンマかどうか・・・。)

まずは、デンマークについて。

ダニッシュ・ダイナマイトとあだ名されるデンマーク代表は、古くからサッカーの強豪として知られていた。オリンピックでは、1908年のロンドン大会、1912年のストックホルムオリンピックと二大会連続で銀メダルを獲得している。ワールドカップには長らくエントリーしない状態が続いていたが、1958年のスウェーデン大会からエントリした。この大会では本大会に駒を進められず、以降、エントリしても欧州予選で敗退することが続いていたが、1986年のメキシコ大会で本大会に初出場した。ベストリザルトは1998年フランス大会のベスト8である。

例によってWikipediaより抜粋。

欧州選手権ではしばしばベスト4に入る活躍を見せたが、最も注目されるのは1992年のスウェーデン大会での優勝である。デンマークは本大会への出場権を賭けた予選でユーゴスラビア代表に競り負け、本来、本大会への出場資格を 有していなかったが、ユーゴスラビア代表がスウェーデンに入国した段階で国際サッカー連盟(FIFA)と欧州サッカー連盟(UEFA)が国際連合の対ユーゴスラビア制裁に従って、ユーゴスラビアの出場資格を取り消したため、急遽ユーゴスラビアに代わって出場することになった。選手の殆どはバカンスに出かけていた状態で、大した準備も出来ないまま大会に臨んだが、シュマイケルやラウドルップ兄弟の活躍もあり、優勝候補のオランダやドイツなどを倒して、あれよあれよと言う間にデンマークが優勝してしまった。このタイトルがデンマークにとっての唯一の国際タイトルとなっている。


この文は「皐月パパ」さんという新聞記者が、プライベートのサイトに書いたもので「転載はご自由に」というもの。ちなみに筆者は この文を書いた(2002年7月)後、『スポーツ新聞社各社に「皐月パパ」という人が居ないか問い合わせが有り、他社に迷惑をかけた』という理由で 会社から自宅待機&減給のペナルティを受けた。

「少年とストライカーと約束」
発売日:2006/04/11 定価:1,050円 発行:双葉社


『7月10日  デンマーク』

あのワールドカップという宴が終わり、はや数日皆さんも一度は見たと思う、いや必ず見たと思う。
その中で、皆さんが印象に残ったことは何ですか?

ブラジルの優勝ですか?
お隣・韓国のベスト4という躍進ぶりですか?
『青の戦士』たちの16強の活躍ぶりですか?

「誤審のひどさばかりが印象に残った」という人もいるでしょうが、この件に関しては後日語りましょう・・・
かく言う私が印象に残ったこととは、あの国のことである。


デンマーク、皆さんはこの国をご存知ですか?
まずは簡単にデンマークという国の紹介をしましょう

デンマーク・・・
正式国名「デンマーク王国」
北欧の端に位置し、面積は43000平方キロメートル、北海道の半分ぐらい
首都はコペンハーゲン、人口は531万人
いたって小さな国である
言語は通常語はデンマーク語、英語でもほぼ通用する

これはボクの経験なんですが・・・デンマークをはじめとした北欧の国々は異様なほどに税金が高いんですよ。まずは日本でいう消費税が最低20%はかかる『サービス税』なんてものも含めるとたいてい30%〜40%近くの税金が課税される

ですからね・・・北欧に旅行に行ってショッピングしようと思うならアメリカとかの感覚で行くと『えらい目』に合いますから^^;

ま〜〜税金高い分いい面も、もちろんあります
これらの国は福祉の充実度が世界トップレベルなんですよ
税金高いのは福祉のためなんでしょう
老後に住むにはこれ以上ない環境の国ばかり^^;

余談を入れちゃいました・・・・話をデンマークに戻そう・・・(・。・)

かのデンマーク、サッカーについては他の欧州国に遅れをとった
デンマークサッカー自体の歴史は古いのだが・・・
世界に躍進しだしのは、つい最近のことである
欧州選手権に84年初出場、ワールドカップ初出場は86年
この80年代から、世界がデンマークのサッカーを認めだした

このころから、彼らの躍進ぶりとスタイルから世界のサッカーファンは彼らのことをダニッシュ・ダイナマイトと呼びはじめたのである
そんな彼らが今大会、2002年日韓ワールドカップに出場することとなった
2大会連続、3回目の出場を決めたデンマーク
(↑ボクのデータですから・・・間違えてたらゴメンです^^;)

そして、このデンマークが今大会のキャンプ地を和歌山県に決めた

キャンプ地の説明は今ここではしませんよ^−^;
テレビでキャンプ地のことは何度か流れていたと思うし・・・

例を上げれば・・・そうですね
遅れてばかりで有名になったカメルーンと中津江村
ベッカムフィーバーでわいたイングランドと淡路島
これらが有名でしょう・・・

そして、和歌山県であるが・・・他の立候補地と同様に和歌山県側も誘致に必死であった
デンマークへ何度も訪れた。この苦労が実りキャンプ地決定の知らせを受けた
この一報に和歌山県の関係者は涙したという

和歌山に決めた理由は「日本のほぼ中心地であり、関空に近いから」という
それだけの理由だった・・・(・。・)

お茶らけはこれぐらにして、ここからは少しまじめに語ります
デンマークと和歌山県民の交流をまじめに語りましょう

それらを見てきた皐月パパの感想なり、想いを入れて書きたいと思う

ですから・・・今日は『落ち無し!』で参ります♪^−^;

では!真剣に書いていきましょう


読者の方々でもデンマークってどんな国?と普通は思いますよね?
「どこにあるの?」「デンマークのサッカー選手で有名な人は?」と思うでしょう・・・これが普通ですよ^^;

アメリカ、イングランド、イタリア、スペインほど日本に名前通ってないし
デンマークという国の存在自体は知っていてもどんな国民性なのか?どのような人種なのか?って普通は誰も知らないものです

もちろん、これは和歌山県民のほとんどが同じであった
和歌山の街中ではこんな会話が交わされたという

「今度のワールドカップでデンマークって国が来るらしいけど知ってた?」
「それは知ってるけど・・・誰か有名な人いるの?
イングランドのベッカムとかイタリアの男前集団みたいに有名な人いるの?」
「う〜〜ん・・・知らない。
 だけど世界で有名なんやったら、一度は練習見に行こうか?」

デンマークの練習を訪れた人は『この手の会話』がきっかけとなった人たちばかりであった
最初、いわゆる『野次馬』的な人が多かったのは事実である
最初の見学者は数百人程度であった、しかしこの数字が日々増えていった
この数字が増えた理由には以下のことが一番大きかったと思う

ワールドカップ出場国のキャンプ地での練習というものは 非公式、非公開が通例であるが、デンマークは違った
(イングランド、イタリア、スペイン、ブラジルといった強豪国はほとんど非公開でしたね^^;)
練習初日からデンマークチームの意向で全ての練習を公開した
さらに練習後には見学に来ていた地元サッカー少年たちを招きいれ 一緒にミニサッカーを行ったりもした
この評判を聞きつけ、デンマークというチームが
「むちゃくちゃフレンドリーで気さくな人たちばかりやで!」という口コミも相当あったという
そして、この翌日から見学に訪れる人が徐々に増えていった
初日はわずか数百人だった見学者が翌日には2000人
その翌日には2500人、そのまた翌日には3000人が訪れた

練習後には気軽にサインに答える選手たち
監督も練習後にはサッカー少年たちを招きいれ練習を指導したりもした
この監督にある記者が聞いた
「他国は練習を公開しないで、試合に備えていますけど デンマークはこれでいいのですか?」と聞いた
すると、このデンマーク・オルセン監督はこの記者にこう答えた

「我々の強さは練習を秘密にしたところで変わらない
 絶対的な自信をもって試合にのぞむだけだ
 何より、キャンプ地を提供してくれた和歌山の人たちが喜んでくれることは
 どんどんするべきなんだ・・・
 試合も大事だが、この交流も大事にしたいと選手全員も言っている」

このオルセン監督、この発言だけでも『いい人』をかもしだしているのだが
彼のエピソードをもう一つ語ろう
ホテル入り初日のことである
デンマークチームが来日し、ホテルでの歓迎セレモニーを受けた後
再度、宿泊先のホテルの支配人と料理担当のコック長が監督の部屋へ挨拶に訪れた

「これからの数日よろしくお願いします」という言葉とともに
彼ら、支配人とコック長にはもう一つ言っておきたい・・聞いておきたいことがあった
彼らにはもう一つ『心配のタネ』があった・・・

それは食事の問題であった

ホテル側も選手たちには万全の状態で試合に臨んでほしかった
食事が口に合わない・・・それが原因ということだけは避けたかった

他国の宿泊先ホテルに連絡をすると、食事でかなりもめたという事を聞いていた
「口に合わない」「母国の材料で調理してくれ!」といった文句を言われたという事を彼らは聞いていた・・・

デンマークが宿泊したホテルの支配人はこう言った

こういったトラブルだけは「どうしても避けたかったんですよ」と
それゆえ「最初に監督さんに聞いて、チームの意向を聞こうと思って挨拶にいったんですよね」と言っていた
その想いから、支配人とコック長は監督の部屋を訪れた
そして通訳を介し、監督に聞いた


「食事で何かご要望とかはございますか?」と支配人は聞いた

するとオルセン監督はこう答えた

「一切お任せします そちらが用意される料理を我々はご馳走になります」と・・・

この言葉に驚いた支配人とコック長
「いや・・やはり母国デンマークの食事の方がいいんじゃないでしょうか?」
「こちら和歌山をキャンプ地に決めたときから、食事もそちらにお任せしようと
 私と選手たちは言っていた。
 選手も理解している。全てをあなたたちにお任せします」

「あの〜〜他の国とかのホテルにお聞きすると・・・
 食事はやはり母国のほうが好まれると聞いたものでして・・・」
この言葉にオルセン監督はこう言った
「他国は他国、我々は我々です」
この言葉に支配人は
「あの言葉で本当にホッとしましたよ・・・滞在中は無事に過ごせていただけると
 あれで思いましたね」と言っていた

さらに、オルセン監督はコック長に向きなおし、言い出したという
「我々は料理をあなたに全てお任せします。よろしくお願いします」
緊張しながらも「はい!こちらこそよろしくお願いします」と答えるコック長
そして、コック長に聞くオルセン監督
「和歌山で有名な食材は何ですか?」と彼は聞いた
この質問の真意がわからずもコック長は監督に答えた
「和歌山では魚が有名です、カツオという魚が特に有名です」と・・・
するとオルセン監督は微笑みながらコック長に言った
「それでは、そのおいしいカツオを我々に食べさせてください
 あなたが腕をふるって、おいしいカツオを選手たちに食べさせて
 やってください」と言った

この言葉にコック長は大変感激した

「世界の代表監督が、あんないい人だったからね〜〜
 いっぺんでデンマークのファンになりましたよ!」と言っていた

この食事に対する『良き姿勢』は監督だけではなった
選手たちも同様だった
最初の食事を迎えた時、ある選手が通訳に聞いた
「デンマークでは食事するとき神への祈りをするのだが
 日本では食事始める時に何かするんですか?」と聞いた
デンマークは国民の9割がプロテスタントである
神への祈りを終えてから食事を始める
この選手は日本ではこれの代わりに何かするのか?と聞きたかったのである
これに答える通訳
「日本でもキリスト信者は神に祈ってから食べるけど
 たいていは手を合わせて『いただきます』と言ってから食べます」と答えた
すると彼は・・・
「こうやるの?」と通訳に聞きつつ、手を胸の前で合わせた
これに通訳は「そうそう!その両手をもう少し上に上げて!」と言った
その言葉に彼は顔の前まで手を上げる
「そうそう!」と答える通訳

そして彼はその姿のまま、コック長の方へ向き頭を下げた
それを見ていた他の選手たちも彼にならい、手を顔の前で合わせた
この時から、食事のたびに手を合わせる選手たち

コック長は言った
「今の日本人でも『いただきます』『ごちそうさま』言えないヤツが多いのに
 外国の人にあんなことされたらね〜〜むちゃくちゃ嬉しかったですよ」と・・・
この最初に手を合わせた選手の名を・・・

トマソンといった

このトマソン選手・・・今大会では4得点をあげ デンマークを決勝トーナメントに進出させた立役者である
あの日本代表・小野選手と同じオランダ・フェイエノールトに所属することでも有名な彼
彼は少し神経質の面を持ちあわせているのだが、非常に心優しい青年だ

トマソン、彼の優しき一面をもう一つ語りたい
それはある握手会でのことである

デンマークというチームは前述したように練習を公開し、和歌山県民との交流を積極的に行った
練習後は地元サッカー少年たちとミニサッカーを行い
握手会、サイン会もたびたび行った
そのひとコマの話である

あの日も、いつものごとくサイン会が行われた
気さくなデンマークの選手たちを県民も大好きになった
あの日もデンマーク選手たちのサインを求め長蛇の列が出来上がっていた
気軽にサインをするデンマーク選手たち
もちろんトマソンもその中にいた
その最中のことである

トマソンの前にある少年が立った
彼はトマソンの前に立ちつつも・・・少しモジモジしていた
後ろに立っていた母親らしき人が彼を促す
「ほら!早くしなさい!」と彼に言っていた

トマソンも少し「変だな」と思ったのでしょう
通訳を通じ「どうしたの?」と彼に聞いた

意を決した少年はポケットから一枚の紙切れを出し、トマソン選手に渡した
それは学校の英語の先生に書いてもらったものだという
英語で書いた、その紙切れにはこう書いてあった

「ボクは小さいころに、病気にかかって
 口と耳が不自由です・・・耳は聞こえません、話せません・・・
 だけどサッカーだけはずっと見てきました、大好きです
 デンマークのサンド選手とトマソン選手が好きです
 頑張ってください」と・・・

その手紙に通訳も・・・その場にいた我々記者も驚いた
言葉が出なかった・・・

だが、トマソン選手はニッコリと微笑み少年に・・・
「それなら君は手話はできますか?」と・・・

手話で語りかけた
その『言葉』に驚く少年と母親
再度聞くトマソン・・・
「手話はわかりませんか?」と・・・
それを見ていた皐月パパはトマソンに英語で言った
「ミスタートマソン、手話は言語と同じで各国で違うんですよ」と彼に言った

手話を万国共通と思う人が多いのだが国によって違う、
ましてや日本国内でも地方によって違う
「そうだったのか・・・」という顔をしたトマソン
そして彼は通訳にこう言った
「ボクは彼と紙で、文字を通して話をしたいのですが手伝ってください」と言った
微笑んで「わかりました」と答える通訳

トマソンは「後ろの人たちにも彼と話す時間をボクにくださいと言っておいてください」とも言った
後ろで順番を待つ人たちは何も文句を言わなかった・・・一言も文句を言わなかった・・・
彼らに「2人の時間」をあげたいと他の人たちも思ったのでしょう
そして通訳を介し、少年とトマソンの『会話』が始まった

「君はサッカーが好きですか?」
「はい。大好きです」
「そうですか。デンマークを応援してくださいね」
「はい。あの聞いていいですか」
「いいですよ。何でも聞いてください」
「トマソン選手はどうして手話ができるんですか?正直、ビックリしました」

この少年の質問に彼は答える

「ボクにも君と同じ試練を持っている姉がいます
 その彼女のためにボクは手話を覚えたんですよ」と・・・
その彼の言葉をじっくりと読む少年
そしてトマソンは少年に言った
「君の試練はあなたにとって辛いことだと思いますが
 君と同じようにあなたの家族も、その試練を共有しています
 君は一人ぼっちじゃないという事を理解していますか?」

この言葉に黙ってうなずく少年

「わかっているなら、オーケー!
 誰にも辛いことはあります。君にもボクにも
 そして君のお母さんにも辛いことはあるのです
 それを乗り越える勇気を持ってください」とトマソンは言った

このやり取りに涙が止まらない母親
この光景を見ていた我々記者も涙した
その場にいた人たち、その2人を見ていた人たちも涙した

そして、トマソンは最後に少年にこう言った

「ボクは今大会で1点は必ず獲ります
 その姿を見て、君がこれからの人生を頑張れるように
 ボクは祈っておきます」

この言葉に・・・この少年は初めて笑顔を浮かべた

「はい!応援しますから、頑張ってください」と少年は言った
 そして、サインをもらい、その場をあとにする少年と母親
ボクの取材に母親は目に涙を浮かべて言った
「あんなことされたらデンマークを応援しないわけにはいかないですよ
 日本と試合することになっても、私らはデンマークを応援しますよ」と
涙を流し、笑いながら言った・・・・


そして、このトマソン・・・少年との約束を守り、得点を決めた
1点どころか、彼は4得点という大活躍だった
こんなトマソン、デンマークを見た皐月パパもいっぺんにファンになってしまった^^;
1次リーグ、フランスという前回覇者と同組だったデンマーク
彼らをボクは応援した・・・
もちろん和歌山県民も応援に訪れた
試合が韓国であろうとも彼ら和歌山県民は応援に駆けつけた

オルセン監督は言った
「試合会場が韓国であっても、和歌山の応援はわかった
 あれが我々の力になった」と・・・

和歌山県民の応援も実ったのであろう
フランスと同組のA組みながらデンマークは2勝1分け
見事1位通過を決めたのである

そして、向かえた決勝トーナメント1回戦
場所は新潟スタジアム、相手はあのイングランドであった
スタンドからは「ベッカム!!!!」という声が至るところから響いていた
その声に皐月パパは叫ぶ
「ダニッシュ・ダイナマイトで・・・にわかイングランドファンを黙らせろ!」
「ベッカムがなんぼのもんじゃ!頼むぞ!デンマーク」と叫んでいた^^;

だが・・・この応援も届かなかった
和歌山県民の想いも通じなかった

デンマークはイングランドに0−3という予想外のスコアで敗れてしまった
その日の和歌山県には雨が降ったという

県民の涙雨だったのかもしれない・・・・


負けはしたが、和歌山県民はデンマークというチームを誇りに思っていた
「よく頑張った!」「後は快く母国に帰ってもらおう!」という言葉が彼らの合言葉になった・・・
だから、彼らは行なった
デンマークお疲れさま!会なるものが宿泊先のホテルによって仕切られた
そこに駆けつける多数の県民
会場にはあふれんばかりの県民が駆けつけた

その催しに「ありがたいことだ」と言ったオルセン監督
もちろん選手たちも全員出席した。あのトマソンもその場にいた
そこでトマソンは見つけた・・・『あの少年』を見つけた

少年と母親もその会に出席していた
少年と母親の元に、通訳を携え近寄るトマソン
トマソンの姿に気づいた母親は頭を下げる
少年はトマソンへ笑顔を向ける
そして、トマソンは少年にこう語りかけた

「せっかく応援してくれたのに負けてゴメンね」と『紙』で語りかけた

これに少年は答える

「お疲れ様でした。負けたけどカッコよかったです
 それに約束どおり点獲ってくれたからボクは嬉しかったです」と・・・・

「ありがとう」と言うトマソン

そして、この少年にトマソンは言った

「ボクから君に言える言葉はこれが最後です。よく聞いてください」
「はい」
「君には前にも言ったとおり、試練が与えられている
 それは神様が決めたことであり、今からは変えられない
 ボクが言いたいことわかりますか?」
「はい」
「神様は君に試練を与えたけど、君にも必ずゴールを決めるチャンスを
 神様はくれるはずです・・・
 そのチャンスを君は逃さず、ちゃんとゴールを決めてください」とトマソンは言った

この言葉に少年は笑顔満面の顔でトマソンに「はい」と言った

そして2人は・・・

「さようなら」

「頑張って」

という言葉を残し彼らは別れを告げた

最後に2人は仲良く写真におさまった
飛びっきりの笑顔を浮かべファインダーにおさまる2人

この写真は少年の宝物になることだろう

トマソンに出会ったことによって少年は『前へ進む』に違いない・・・
彼の転機になることを皐月パパは祈ってやまない

小さな少年、心優しきトマソンに
これからも栄光あれ。。。


※皐月パパ 2002年7月10日の日記より


ヨン・ダール・トマソン(Jon Dahl Tomasson、1976年8月29日 - )

パスを受けてからの動き出しが非常に速く、ゴールマウスを切り開いていくというプレースタイルから「ゴールの外科医」という愛称がある。
2002 FIFAワールドカップで4ゴールを決め、大会得点ランキングの4位になった。代表では、およそ2試合につき1得点のペースでゴールを生み出している。

2002 FIFAワールドカップ時の和歌山合宿では、マスコミ関係者の個人サイトに掲載された聴覚に障害を持つ少年との心温まるエピソードがあり、ネットを中心に話題となった。しかし、地元のメディアや新聞等はどこも取り上げておらず、地元の和歌山県民ですら知らない人が多い。件の日記は、その後、執筆者が所属している会社に「あの記事は本当なのか?」という問い合わせが寄せられ、「このまま掲載していると会社に迷惑がかかる」という理由でサイト上から削除された。トマソンはこのエピソードについては何も語っておらず、むしろ日本を批判するような内容を海外メディアで語った[要出典]とも言われている。 トマソンと少年[[1]] また2006年4月には、このストーリーを綴った本『少年とストライカーと約束』が双葉社より出版された。





トマソンのいい話

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ヨーロッパの王制国家ではキリスト教の絶対神に正統性の根拠が置かれ、国王は地上の支配者とされていますが、日本の天皇はそれとは異なり、「祭祀王」「祈る王」だとされています。洋の東西を問わず、人々が争いのない、豊かな生活を送るようにするのが統治者の第一の役目でしょうが、歴代の天皇は政治的権力や軍事力ではなくて、神々をまつる祭りと祈りの持つ霊的な力によって、この日本という国を治めてきました。

ん―――そうか――。
いままでそんな風に見ていませんでした。
どうなんでしょう?共産主義のヒトとかは天皇制の廃止を言いますが、私は今までどおりいらっしゃるほうがいいんですけど。
今後も存続を希望します。




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ブログがこんだけ盛んになったおかげで、一部の反日的な国家のおかしな報道や国内の報道のおかしな点を指摘してもらえるようになり随分世界の見え方が変わったような気がします。その反面、日本バンザイ!日本サイコーじゃん?的なブログもでてきており、それもいいと思うんですが、どうも全体像がぼやけた中で部分としての日本賛美が抽出されているような気もします。また、そういうのに限って原点を探すのに苦労するわけです。

例えば、こういったもので・・・

『アラブは親日感情の沁みとおった肥沃な大地だ。ここに種を撒き育てることは、われわれの義務ではないか』アブデル・ラ−マン・マ−リ(アラブ連盟駐日代表部副所長)

『日本とアラブ世界の間にはプラトニック・ラブとも言うべき感情がある』モハッメド・ヘイカル(ジャーナリスト)

この辺になると、いつのハナシだか何にのってたのか探しようがありません。最初にブログに載っけるかたは是非出典を明記していただきたいものです。

さて、調べてみてこれ以上わかんなかったのがこのヒト。『大詩人』といわれてるくらいなんですぐにわかるかなとも思ったのですが、結構手こずりました。

アラブの世界で、「日本の乙女」というロマンティックな題名を持つ日露戦争を歌った有名な詩がエジプトであり、大詩人ハーフェズ・イブラヒームによって作られた。 この詩はつい半世紀前までは、多くの知識人の間で暗唱されるくらい記憶されていたが、いまでも、エジプトやアラブの教科書に使われてたり、 時としてラジオなどで朗読されることがあるという。

とまで書かれているのに、WIKIでも日本語では出ないし・・・英語つづりもなかったのでいろいろと試行錯誤してやっとちょろっと時代が特定できた程度・・・。

日本の乙女 ハ−フェズ・イブラヒ−ム作

『砲火飛び散る戦いの最中にて傷つきし兵士たちを看護せんとうら若き日本の乙女、立ち働けり、 牝鹿(めじか)にも似て美しき汝(な)れ、危うきかな!
いくさの庭に死の影満てるを、われは、日本の乙女、銃もて戦う能わずも、身を挺(てい)して傷病兵に尽すはわがつとめ、 ミカドは祖国の勝利のため死をさえ教えたまわりき。
ミカドによりて祖国は大国となり、西の国ぐにも目をみはりたり。わが民こぞりて力を合わせ、世界の雄国たらんと力尽すなり。』



Hafez Ibrahim ハ−フェズ・イブラヒ−ム(1872 - 1932)
ナイルの詩人と呼ばれる。
19世紀の後半、アラビア詩を復活させた詩人の1人に数えられる。
政治的で社会的な詩を書くことが多かった。

と、この程度。
どういった文脈でこんな詩が出来たのかちゃんと教えてください!



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「Tourists from every country who visit this island should be told how courageous and patriotic were the Japanese soldiers who all died defending this island.」

「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
 あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
 此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶うその心根を……」


ペリリュー玉砕戦についてアメリカの指揮官が詠んだ詩。

当時、パラオは日本領であった。私たち日本人は戦争について、戦争に悲惨さを悲しみ不戦の誓いを明らかにするとともに、なぜ戦いに及んだか?を問い続けなければならない。
日本人だけが責められたもんではない。
帝国主義を標榜していた国、民族主義を推し進めていた国、イデオロギーに染まっていた国、列強に押され何も出来なかった国。
皆、責められるところはあったはずだ。
私は思う。
祖父が赴いた戦地に何の理念もなかったか?祖父らが戦わねばならなかった理由とは帝国主義的な領土的野望か?一介の地方の役人が、行かねばならぬと思った戦地とは国家主義的な思惑だけしかなかったのか?と。
そんなはずはないと思う。祖父と、そしてその戦友らは、本当に命をかけて守るべき者のため、またはその者たちが住む日本のために戦地に赴いたのだと。
そうした私の気持ちを裏付ける資料(物語)というものは世の中にあるものだ。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。

それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


祖父は南方戦線に行ったわけではなく、中国大陸に行った。
とくに厳しい前線に行ったわけではないらしいが、決して死なない保証のあるような戦場ではなかったらしい。
祖父は自らの戦争を書物として上梓していてそれを読むと、父のこと 祖母の事も書かれていて、祖母 父の話も聞かされた孫としての私としては泣けてくる所もあるわけですが、祖父の話は男のロマンたっぷりの武勇伝だ。
戦争は決して『良い』モノではないが、その時代の状況によっては『正しい』という見方もあるべきだし、今ある決して悪くない現在は、過去の戦争によってもたらされた未来であると思えば、祖父らの働きは決して否定ばかりにさらされるものではないと思うが、皆さんどう思う?

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アーノルド・トインビー(英国歴史学者)

「第二次大戦において、日本人は日本のためというよりも、むしろ戦争によって利益を得た国々のために、偉大な歴史を残したといわねばならない。

その国々とは、日本の掲げた短命な理想であった大東亜共栄圏に含ま
れていた国々である。

日本人が歴史上に残した意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が、過去二百年の間に考えられていたような、不敗の半神でないことを明らかにしたことである。」


(英紙「オブザーバー」1956.10.28)



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