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乃木希典

ワタシの曽祖父は日露戦争に行っている。
軍服を着た曽祖父と祖母の写真がある。
祖母の父は日露戦争へ、結婚し旦那さん(祖父)は太平洋戦争へ。
いずれも帰還しているあたりが幸運だが、すごい人生だな。
祖母の話は私の子供に伝えなければならない。
祖父の軍隊での写真は子供に見せてやらねばならない。
父の防空壕での体験や疎開の話をするのは私の義務だ。


旅順攻略戦後にロシア軍旅順要塞司令長官アナトーリイ・ステッセリとの間で水師営の会見が行われた。そこでの乃木の紳士的で寡黙な雰囲気は、諸外国の記者が持つ日本人観に大きな影響を与えたといわれている。乃木はステッセルらロシア軍幕僚にも帯剣を許し、従軍記者たちの再三の要求にも関わらずロシア軍との会見風景は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。

乃木の姿勢は世界中から賞賛され、日本の国際的地位すら向上させたことから、やがて乃木は「旅順の凡将」から、東郷平八郎とならぶ日露戦争の英雄となり、その後、長く軍人精神の具現者と見なされるようになった。

乃木がこの戦争で二人の子息を失ったことへの同情や、旅順攻囲戦が極めて困難な作戦であったことが伝わったことから、乃木の凱旋は最も多くの国民が押し寄せたといわれる。

乃木は明治天皇からの信望が厚く、明治天皇が後継者と期待していた裕仁親王(後の昭和天皇)の教育係として学習院院長に命じられる。幼親王も乃木を慕い、乃木も聡明な親王に陽明学を勧めた。殉死の前日、乃木は親王に自ら写本した山鹿素行の『中朝事実』と『中興鑑言』を渡し、この本がいかに素晴らしいかを説き、熟読するよう念押しした。当時弱冠10歳の親王は、乃木のただならぬ気配に、これは遺言だと気付き、思わず「閣下はどこかに行ってしまわれるのですか?」と聞いたという。昭和天皇は晩年まで、生涯で最も尊敬する人物として乃木の名を挙げ続けた。

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福澤諭吉


日本にとっての不幸は、“中国と朝鮮”である」
「この2国は古来文化は近かったはずなのに、日本と精神性が全く違う」
「情報が発達し、近代文明や国際法を知る時代になっても過去にこだわり続ける中国と朝鮮の精神は千年前から変わっていない」
「もうこの2国が国際的な常識を身につけることを期待しても意味がない」
「東アジアの一員として互いに繁栄できる、という幻想は捨てた方がいい。 日本は、中国や朝鮮と絶縁し、欧米と共に進んだ方がいい」
「中国や朝鮮に“ただ隣国だからといって”特別な(親しい)感情を持って接するのは間違いである」
「この2国に対しては国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい」
「悪友と親しくする者は、他人から同類と見られることを避けられない」

福沢諭吉『脱亜論』


福澤諭吉がこう考えた明治のころと今とまったく変わっていないような気がするなぁ・・・。
慧眼というのか、それともこの2カ国が相変わらずなのか・・・。

なんだか疲れるね。

杉野はいずや

軍神廣瀬中佐と杉野兵曹長

戦争前には廣瀬中佐の名を知らない日本人はほとんどいなかったろう。廣瀬武夫 (広瀬武夫) は日露戦争のときに戦死した海軍少佐で、死後中佐に昇進した。
日本海軍は陸軍と共同して、ロシアの軍港旅順を攻めるが難攻不落で手を焼いた。廣瀬武夫は旅順占領に功績があったわけではないが、部下思いの姿が国民の共感を呼んだのである。

日本にとって、旅順を占領することが最大の利益であるが、海戦の立場から言えば旅順港に碇泊するロシアの艦隊が脅威であって、戦艦が港から出撃できないようにすれば目的は達せられる。乃木中将の率いる第三軍が陸から旅順を攻めたのも、占領が目的というよりロシアの旅順艦隊を制圧することが戦略上重要だったからである。

艦隊が活躍できないようにする目的から、廣瀬少佐他が旅順港の閉塞を提案した。旅順港は湾の入口が狭いから、ここに不要船を沈めて旅順艦隊が出て来られないようにするという作戦である。

何回か閉塞作戦が試みられ、司令官は廣瀬が勤めた。数回目の試みの際、船を沈めて退艦しようとしたとき、部下の杉野上等兵曹がいない。廣瀬は沈みかけた船に帰って探したが見当たらない。そこで諦めてボートで戻る途中、ロシア軍の砲弾で命を落とした。明治37年 (1904年) のことであった。

なお、旅順港閉塞は結局成功せず、陸戦で乃木希典の第三軍が兒玉源太郎の助けを借りて旅順を攻め落とす。

廣瀬少佐の勇敢な行動は「軍神」と讃えられ、小学唱歌として皆に歌われた。死後中佐に昇進したので唱歌の題名は「廣瀬中佐」である。

「廣瀬中佐」 文部省唱歌
轟く砲音 (つつおと)  飛來る弾丸
荒波洗う デッキの上に
闇を貫く 中佐の叫び
「杉野は何處 (いずこ)  杉野は居ずや」



李登輝

海外の政治家が言うことを額面どおりに受け取る必要なんてないのですが、ホメられると嬉しがったりしてしまうのは日本人の悪いところ。
李登輝に関しても、政治的な発言も含め『日本びいき」にもみえてるけど、ことはそう単純ではない。
過去の時代のノスタルジーに関しては好きなように言わせてもいいと思ってますが・・・。


「実践躬行(理論や信条をそのとおりに自分自身で実際に行うこと。)」

とにかく、日本の旧制中学や旧制高校の学生たちは、徹底的に本を読みフィロゾフィーレン(哲学する)していました。しかし、単なる「ブッキッシュ・ラーニング」(本を通しての頭だけの理解)に終わらず、常にその成果を実人生に反映させながら実践し、苦悩し、呻吟していた。
それなのに、このような素晴らしい思索的で哲学的な雰囲気が、戦後の日本教育の中でほとんどすべて否定されるようになったのは、かえすがえすも残念でなりません。

私が大陸の中国人のことをあまり評価しない裏には、同じ「孔孟の書」に接しながら、武士道に培われた日本人のこのような考え方、すなわち「実践躬行」の精神が希薄だからなのです。
まさに「論語読みの論語知らず」で、口先ばかり。そして平気で嘘をつく。
中国文化はなぜこうまで腐り切ったのか。理由は極めて明快です。言行不一致、 言っていることと、やっていることが全く違うからです。

私が声を大にして「心霊(精神)改革」をやらなければだめになると言っているのも、 まさにこのような意味においてなのです。巧言令色鮮し仁。言葉だけ巧みに使って人を騙してはいけない。             

李登輝「『武士道』解題-ノブリス・オブリジュとは」



ザビエル


日本人は何よりも名誉を重んじ、彼らの大多数は貧しいが、貧困は貴族にとっても 武士にとっても平民にとっても、決して恥ずかしいことでも、不名誉なことでもない。
彼らは「正直さ」のほうを選ぶ。未信心者のなかで、日本人より優れている民族は いないと思われる。
   
宣教師  フランシスコ・ザビエル

ネルー


「日本の勝利は私を熱狂させた。私は新しいニュースを見るために毎日新聞を待ち焦がれた。
どんなに感激した事か。どんなにたくさんのアジアの少年、少女、そして大人たちが同じ感激を体験した事か。ヨーロッパの強国ロシアはアジアの国、日本に負けた.だとしたら、アジアはヨーロッパに勝てるかもしれない。」

涼月

1939年(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦。1942年(昭和17年)12月29日に三菱重工業長崎造船所で竣工。竣工後は第61駆逐隊に編入され艦隊護衛、船団護衛、輸送任務に従事した。1944年(昭和19年)に2度被雷。そのためマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦には参加できなかった。

1945年(昭和20年)の坊ノ岬沖海戦には「大和」の護衛として参加。艦橋前に150kgと推定される爆弾1発を受け損傷し、低速後進[5]で佐世保に帰着する。完全復旧は断念され応急修理を施した上で佐世保相の浦に係留、陸上より電気を引き第3砲塔を使って防空砲台となった。佐世保が空襲された際にP51を1機撃墜している。

戦後は損傷のため復員輸送に使用されず1948年(昭和23年)に解体。船体は「冬月」「柳」とともに北九州市若松港の防波堤としてそのまま活用され、地元では軍艦防波堤と呼ばれた。

本艦は3度の被害にあったがいずれも生還し秋月型駆逐艦の中で1番の長命となった。片桐大自は「雪風とまた違った意味での武運艦」と評している。


爆弾が命中、艦首をもぎ取られた涼月は、必死の応急作業を行いつつ、後進で佐世保に帰投しようとする。

(前略)
佐世保まで9ノットで18時間。その間を、後進で、逆向きに、人力で舵を操りながら、爆弾の破口からは、まだ煙を出しながら、すこしもくじけず、元気な360人が、「フネを沈めるな」を合いことばに、がんばった。

とうとう涼月は、佐世保に着いた。
「入港用意」のラッパが涼月で鳴った。先着の冬月、雪風、初霜がそこにいた。再び見ることはあるまいと覚悟を決めていた故郷の春の緑が、涼月の乗員達の目にしみた。しかし彼らには、それを見つめる余裕はなかった。ブイにつなごうとしたとき、急に、船脚が深くなりはじめたのに気付いた。艦が沈みかかっている!

港務部や、工廠から、曳船が、サイレンを吹き鳴らしながら、全速力で駆けつけてきた。そのうちの一隻は、Uターンして、ドックの扉をあけに戻った。一分一秒が貴重だった。船が精根つきかけていた。3隻の曳船が、1隻は艦尾を、2隻は両舷から涼月を横抱きにして、強引に、扉を開けたドックに引っぱりこんだ。涼月がドックにはいるやいなや、すぐ扉をしめ、急いでドックの水を排水しはじめたが、涼月は、もうそのときには、ズズズズとドックの底にすわりこんだ。水がかい出されるわずかな時間が待ちきれず、ドックのなかで、がっくりと沈没したのだ。

「感動しました。われわれもがんばったが、フネもがんばってくれたんです。 フネも生きているんです。われわれのなかまなんです。われわれ駆逐艦乗りにとって、 フネと人は、一体なんです。 やったなあ、涼月。すごかったぞ。水がかい出されたあと、私は、ドックの底に降りていって、 フネの横腹を手でたたきました。下士官が4、5人、同じようなことをやっていました。きっと、私と同じことをいっていたのでしょう――」
鴫之沢砲術長が、目をうるませて、そういった。

砲術長はそのあと、艦内を調べていたとき、一番砲の弾薬通路の左舷側、水線下にある一へやに、下士官、兵長、兵の3人がたおれているのを発見した。見ると、そのへやは、丸太で隔壁をささえ、カスガイを打ち、完全に海水を防ぎとめてあった。砲術長は、電気にうたれたように、その3人の遺体にむかって、頭をたれた。涼月は、前に10度傾いていた。それ以上、前部が沈下すれば、沈没はまぬがれなかった。この3人は、最後までこのへやの空間を守って、浮力がそれ以上減るのを、身をもって
防いでくれていたのだ。

アメリカ海軍は、田中司令官を、負けじ魂の駆逐艦乗りとたたえた。しかし駆逐艦乗りの負けじ魂は、人だけのものではなかった。人も艦も一体だった。涼月が、それを証拠立てた。そしてそれは、涼月この3人の乗員たちのような、駆逐艦乗りらしいめいめいの判断と献身とでささえられていたのであった


『壮烈!水雷戦隊』

8795855のコピー

夏が来れば戦争について考えます。
いつもの調子でないのもちょいちょいと入れながら、人生まじめに考えてみないとね。
基本的に戦争はよくないけど、日本でやってる教育は戦争という事実についてはいいけど、なぜ戦争に陥ったかの記述が薄く、当時の日本ではどういう機運が高まっていたかなどではミスリードしやすいあやうい記述が多い点が間違っていて、報道にも少しバイアスがかかっていると思ったほうがいい。

だからってどうもしないけど、少なくともワタシはコドモにいろいろおしえるつもり。
学校で教えないことがたくさんあるということ。
その中のひとつがコレ。

松尾敬宇海軍中佐 熊本県出身  海軍兵学校第66期
昭和17年5月31日歿、満24歳

憂国の烈士・三島由紀夫は『行動学入門』の中に、“行動の美の典型”として「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったがハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこから現れ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が伝えられているが、このような場合にその行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」と記した。

この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(当時大尉)その人なのである。中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、遠くシドニー港の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。

中佐は壮途につく直前(昭和17年3月29日)、両親と兄姉を呉(広島県)に招き一夕を共にすごす。この時、父から贈られたのが前記の『行動学入門』に「日本刀をふりかざし‥‥‥」と記された伝家の
菊池千本槍(短刀に柄のついたもの)である。その夜、中佐は「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床に就く。二十四年育て上げ、唯一筋に国に捧げまつろうとする吾が子の肌の温もりに、今宵が最後の夜を予感、春寒を遮るようにその五体をわが胸に引き寄せる母であった。

昭和17年6月5日の大本営発表によれば「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、5月31日夜、濠州東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、湾内突入ニ成功、敵軍艦一雙ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル我特殊潜航艇中三雙未ダ帰還セズ」と。

この大胆不敵な作戦は濠州の人々の心胆を寒からしめたが、日本海軍軍人の忠勇武烈に深く感銘した濠州海軍は6月4日、松尾艇、翌5日に中馬艇(海軍中佐中馬兼四)を引き揚げると共に、艇内から収容した四勇士を6月9日、海軍葬の礼を以って弔ってくれた。

この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー地区海軍司令官ムアーヘッド・グールド少将は『勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである。これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか』と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのである。

戦後、濠州海軍は松尾艇、中島艇を切半して一艇とし、首都キャンベラのオーストラリア連邦戦争記念館に安置、御遺品と共に丁重に展示している。「この勇気を見よ!」と説明が特筆大書され、内外の参観者に大きな感銘を与えているとのことである。

昭和43年4月、中佐の母堂は濠州へ答礼感謝の旅に出る。83歳の老母は「訪豪に当たりて」の一文を草した。『昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかわらず、世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、その上遺骨は日章旗で覆い、丁重に遺族へ届けていただいて、10月9日、鎌倉丸(戦時交換船)横浜に着くや全国民の感激はとても言葉に尽くせませんでした。(中略)ただ貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日は遥かに貴国を拝し、感謝合掌しておりました。この度はからずも、松本先生(地質学の泰斗松本唯一博士)始め多くの方々の御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、こよなき喜び、かつ光栄に存じます。』

とつ国のあつき情けにこたえばやと老いを忘れて勇み旅立つ

母堂まつ枝刀自は会う人の全てを魅了する玲瓏玉の如きお人柄で、その上、素晴しい歌人でもあった。訪豪の十日間、“勇士の母”として濠州は海軍をはじめ朝野を挙げて、あたかも国賓を迎えるごとく歓迎した。

一行は中佐ゆかりの戦跡を巡るが、狭い湾口を見詰めた母堂は「よくもこんな狭いところを‥‥‥母は心から誉めてあげますよ」とつぶやき、湾内では戦死した6名の勇士の名を心に叫びながら、故郷の押し花、色紙と日本酒を海にまいた。湾内を見下す断崖からは、中佐の許嫁だった女性から託された和歌二首を記した紙片を海に投じた。その人の真情が母堂の手で手向けられたのである。中佐への何よりの供養であったろう。連邦戦争記念館では、中佐の御遺品の数々に涙を注ぎ、愛艇を撫でさすり、菊池神社の神酒と花輪を供えた母堂は、

愛艇を撫でつつおもふ呉の宿名残りおしみしかの夜のこと

と、吾子に添い寝をした最後の夜を回想する。そして館長からは、中佐が最後まで締めていた血染めの千人針などの御遺品が返却された。一行の行く先々に大勢の記者が待ち構えていて、新聞は母堂の各地での写真と詠歌をトップ記事で競って報道したため、濠州国民を感動の渦に巻き込んだ。

昭和55年(1980)1月24日、母堂は95歳の一生を終えた。27日の葬儀には、中佐の忠烈を讃え、母堂を慕う400余人が辺鄙(へんぴ)もいとわず全国から参列。オーストラリア大使館からの弔電をはじめ、霊前には数々の弔辞が述べられ、詩吟、和歌などが献詠されて、葬儀は3時間に及んだという。


戦争がどういうものなのか実際のところ私は知らないけど、すくなくともあったことについては教えようと思う。それに、じぶんがもしこういう事態にあったときには、身の処しかたについて参考にはなると思う。

立派です。実に立派です。
そして大変つらいであろうと思います。だからこそ知らなければとも思います。

Edward Sylvester Morseのコピー

日本人はとても正直であるー1877年(明治10)6月下旬

人々が正直である国に居る事は気持ちが良い。私は財布や時計に注意しようとは思わない。
私は錠をかけぬ部屋の机の上に小銭を置きっ放しにするが、日本人の子供や召使は
一日に何度も出入りするのに触れてはならぬ物には決して手をつけない。
私のコートをクリーニングに持って行った召使は、なんとポケットの一つに入っていた小銭に気付いて
すぐに戻ってきたのである。また次の時にはサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って戻ってきた。
この国民も、いわゆる文明人としばらく関わっていると盗みを働く事があると聞くが、
内陸では不正直な事はまず無い。条約港においても同様である。日本人が正直である事の最大の
証拠は、3000万人の国民の家に錠も鍵も閂も、錠をかける戸さえも無いという事実である。
昼間は、すべる衝立が唯一のドアであるがそれも10歳の子供でも引く事が出来、
或いは穴をあける事が出来る程弱い構造なのである。

大西瀧治郎のコピー

『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
 一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
 二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。(後略)』

大西瀧治郎中将特攻作戦の真意


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