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『たった5千人の人しかアルバムは買わなかったが、それら一枚一枚がバンドの始まりだった』・・・ブライアン・イーノ

恐るべきアルバム。後になって影響云々を言われて評判が高いって言うのも珍しいのではないか?というボクも随分後になって聴いたし、聴いた最初は『???』って感じだったけどね(笑)
とにかくそういうものも世の中にはあるというのがわかった。

ヴェルヴェットのファーストの中では無論この曲。
The Velvet Underground - Andy Warhol, European Son

なんかわからないですがPVらしきものが他にもあるんですが?どっちがオリジナルなんでしょうか?誰か教えてください。
Velvet Underground - Andy Warhol - European Son

あと、もうひとつ上げるならこれ↓
Velvet Underground - Andy Warhol - Venus In Furs


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PUMA.jpg


プーマのプロモーションに行ってみた。
大阪の今の店舗は狭くこの手のプロモーションには手狭かも。
早く大きな店でやって欲しいものです。
それにしても『展示』の手法はいまひとつかなぁ・・・。
もうちょっと迫力があっても良さそうなもんですが。コンパクトなんで見やすかったといえば見やすかったけど

以下はパンフレットからの抜粋

Walt'Clyde'Frazier

1945年、アトランタに生まれた暗いどの情熱は、幼い頃より常にバスケットボール、ファッション、そしてスニーカーに注がれてきた。
『ボクが10歳か11歳の頃、スニーカーがワードローブの中で一番ホットな存在だったんだ。毎朝ぴかぴかに光ったシューズを履いて出かけられるように、毎晩石鹸で洗って、ブラシで磨き上げていた。シューレースの結び方にまで、すごくこだわったもんさ』

1967年にニューヨークニックスに入団したクライドは、天性のシューターとしての芸術的且つスマートなパフォーマンスで、瞬く間にスターの階段を駆け上がり、“Bonnie & Clyde”(俺たちに明日はない)のウォーレン・ビーティーに似せたユニークなファッションスタイルから”CLYDE"のニックネームで親しまれるようになった。


ちなみに殿堂ではこんな紹介です。
hall of famers

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シンクロですが、ホントやばいトコでした。
順番に救われたか?
スペインチームは日本より先の演技で、本来?っていうかまともならテクニカルで日本に負けてのフリーのはずだった。
コーチもそう思っていたはず。が、しかしテクニカルで同点。
盛り上がるスペインチーム。そこに落とし穴が潜んでいたと思う。

スペインチームの持ち味は大胆で伸びやかな演技と肢体の美しさを生かしたエンターテイメント性だったはずなのに、テクニカルで並んだスペインはある意味守りに入った。結果、緊張し本来の持ち味を出せなかったと言ったところだろうか?

いや~勝負って厳しいなぁ・・・。

日本「世界2位」の座死守!10大会連続の銀

シンクロナイズドスイミングW杯最終日(17日、横浜国際プール)2番手は譲らない! チームのテクニカルルーティン(TR)とフリールーティン(FR)を行い、昨年の世界選手権2位の日本は合計97.750点で銀メダルを獲得だ。TRはスペインと同点の2位だったが、FRで突き放した。世界大会のチームで日本が2位になるのは97年W杯広州大会から10大会連続。宿敵スペインとのデッドヒートを制し、「世界2位」の座を守った。ロシアが合計99.100点でW杯4連覇、大会全4種目を制してW杯を獲得した。

 やっと重圧から解放された。日本のマーメイドたちが大粒のうれし涙をこぼして、喜びをわかち合う。宿敵スペインとのマッチレース。0.150点差をつけて銀メダル獲得。地元開催のW杯で「世界2位」の座を10年連続で守りきった。

 試練を乗り越えた。得意のTRではミスが発生。同調性を欠くまさかのシーンが数度あり、スペインと同点に。TRで先行して逃げ切る“勝利の方程式”に大きな狂いが生じてしまった。直後のチームの雰囲気は重く、沈んだ。

 だが、“救世主”がいた。鈴木絵美子(ミキハウス)だ。TRは温存された日本のエースが、FRに志願出場。チームを一つにした。「TRで負けてはいなかったし、前日のデュエットでスペインに負けたからなんとかばん回したかった」。大黒柱に引っ張られ、最終組で泳いだ日本は3人の審判が9.9点をつける会心の演技で魅せた。

 大会では不調だった原田早穂(ミキハウス)も最後に意地を見せた。入水直前に足を滑らせて右太もも裏を切るアクシデント。だが、最後まで泳ぎ切り、3種類のリフトの土台役をやり遂げた。「焦ったけど、入水直後にチームメートが形にはまるように私を押してくれた。そこから集中できました」。仲間との一丸の勝利を実感した。

 デュエット、チームで銀メダルを獲得したアテネ五輪代表組で残っているのは、鈴木絵らわずかに3人。2年後の北京五輪に向けて若返った新生日本代表には表現力などまだ課題は多い。だが、ライバルとの接戦を制した銀メダルは何よりの収穫。来春の世界選手権(豪州)、今度は打倒ロシアに挑戦する。
(サンケイスポーツ) - 9月18日8時2分更新


それにしてもスペインっていつからこんなに強くなったんだろうか?と思ってたら日本人コーチの名前が・・・・藤木麻祐子コーチ!?
アテネのときはシンクロの日本コーチ陣に名前がある。

96年アトランタ五輪の銅メダリスト。3年前に技術指導を頼まれたのをきっかけにスペインに渡った。「3カ月の予定だったのに、いつの間にか3年」と笑う。

 スペインは振り付けの面白さなど表現力に定評があったが、日本のような同調性に欠けている部分があった。

 「ラテン気質というか、やる気を出すと実力の数倍の演技を見せるが、気持ちが沈むとまるでだめになる。同じことを繰り返すような忍耐強い練習も苦手」。日本とは勝手が違い、苦労が多いようだが、雰囲気ややり方を変えながら育て上げてきた。

 今大会では、各種目で日本としのぎを削るが、あまり抵抗感はないようだ。「トップにロシアという存在があり、そこに追いつき追い越すのが目標。日本はライバルというよりも同じ目標を持つ国が、たまたま近い位置にいるという感じ」。視線は日本よりさらに上を向いている。


ふ~ん。そういうことか・・・・。北京はヤバイな。
スペイン・・・なんかやりそうだ。
それにしても私の世代では、コーチが海外に行ってそっちが強くなると言うと、バレーボール女子の『ペルー』の『加藤明』さんを思い出すが?
こんなヒトだ↓

「加藤 明」と言う名前を聞いて、「ああ、あの有名な加藤さん」と思い出す人は、余程のバレー通か、新日鐵ファンということになってきたのではないでしょうか。
慶應義塾大学を昭和30年に卒業して、当時の八幡製鐵に入社、前衛のレフト(当時は9人制)として大活躍し、その天才的なバレーボールセンスは抜群であったと語り継がれています。ちょうど、6人制へ日本のバレーボール界が、大転換を迫られていたときで、6人制でも第4回世界選手権大会(昭和35年)の日本代表に選ばれるなど、輝かしい戦歴の持主であります。しかし、「加藤 明」さんの名前は、昭和35年にバレーボール部を引退し、指導者の道を歩み始めてからの活躍において、その名を永遠に残すことになったのであります。

2部に低迷していた母校、慶応のバレー部の監督を引き受け、1部に復帰させ、昭和39年のインカレでは強豪を次々破って優勝に導くなど、指導者として非凡な才能を見せた「加藤 明」氏は、南米ペルーの女子ナショナルチームの、監督を委されたのであります。現役時代からの抜群のバレーセンスとバレーボールに掛ける情熱と誰にも慕われる素晴らしい人柄は、全くのバレーボールの後進国であったペルーチームを、あっと言う間に国際的なレベルの素晴らしいチームに作り上げて行ったのでした。
「加藤 明」氏の功績の大きさは、ペルー政府のオフィシャル(叙勲)の栄に輝いたことでも判りますが、 広く国民からも慕われていたことは、ペルーを訪れた多くの日本人旅行者が「カトウを知っているか?」と聞かれたというエピソードからも、推し量ることが出来ます。
残念ながら、昭和57年(1982年)3月20日ペルー・リマ市内の病院で、49才という若さで亡くなられました。

鎌倉の材木座霊園に「惜別の碑」があり、次のように書かれています。


慶應義塾大学、八幡製鐵と白いボールに青春と男の夢をかけ、南米ペルーにまいた
一粒の種は大きく実を結んだ。ペルー政府よりオフィシャル、日本政府より勲五等
雙光旭日章と名誉ある叙勲を受け、バレーボールに限りない情熱を捧げ、多くの人々
に愛され慕われた明よ、安らかに眠れ。


堺ブレイザーズオフィシャルサイト






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