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roxanne lowit 2のコピー

会社にインターンが一週間ばかり来ておらっしゃって、実務やら課題なぞをやっておる。
ワタクシ的にはあまり関係のないことと知らんぷり決め込んでたら、色々あって課題のナカでアドバイスやらナンやらしてやらねばならなくなってしまった。
非常にめんどくさい。
学生は口の利き方を知らん。
なんで、タメ口?俺ツレ?ん?・・・・たのむわ・・・。
ワタシは学校の先生ではないので、教えてあげようなんて思ってないのに何か勘違いをしている。教えてやってんねん!時間作ってんねん!ヒマじゃないっつ―――――の!さっさと課題もってこいってっ!時間決めてたでしょっ!さっさとする!遅いことは牛でもできる!(ってよくバイトのおっさんに言われたなぁ・・・)
非常にめんどくさい。
ふてくされた顔をするモンじゃありません。
ホンマもんの美大生は頭がよくないのか?今日は企画からコンセプトだったけど散々な思いだ。コンセプトって知ってる?ガッコ―――では教えないかね?

なかには不思議ちゃんも混ざっていて恐ろしい思いもした。なんで?
どこをどう考えたら急にそんなトコ飛ぶの?はい?映像が・・?・・・?映像・・・どんな店にするんですか?何を売るのよ?だったらこうしてこうしてこうでしょ?ん、やっぱり画像がほしい。画像って何?写真とか・・・写真するの?えっしない・・・好きでもない・・・だったら何でこだわってるの?

こんな学生おくってよこすなよ・・・。

まあいい。
こんなのも明日で終わり。

さて、明日は事務所内でデスクの移動。
いままでスペースの加減でウチの班だけ営業チームの中に入れられていたのですが、下期から設計部の皆さんの中にやっと戻してもらえるという。
喜ばしいのやら先行き不安なのやら複雑な思い・・・。

写真はロクサーヌ・ローイットによるもの。
セレブなのがお得意なフォトグラファー。
きっちしリスペクト。

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8795855のコピー

夏が来れば戦争について考えます。
いつもの調子でないのもちょいちょいと入れながら、人生まじめに考えてみないとね。
基本的に戦争はよくないけど、日本でやってる教育は戦争という事実についてはいいけど、なぜ戦争に陥ったかの記述が薄く、当時の日本ではどういう機運が高まっていたかなどではミスリードしやすいあやうい記述が多い点が間違っていて、報道にも少しバイアスがかかっていると思ったほうがいい。

だからってどうもしないけど、少なくともワタシはコドモにいろいろおしえるつもり。
学校で教えないことがたくさんあるということ。
その中のひとつがコレ。

松尾敬宇海軍中佐 熊本県出身  海軍兵学校第66期
昭和17年5月31日歿、満24歳

憂国の烈士・三島由紀夫は『行動学入門』の中に、“行動の美の典型”として「オーストラリアで特殊潜航艇が敵艦に衝突直前に浮上し、敵の一斉射撃を浴びようとしたときに、月の明るい夜のことであったがハッチの扉をあけて日本刀を持った将校がそこから現れ、日本刀を振りかざしたまま身に数弾を浴びて戦死したという話が伝えられているが、このような場合にその行動の美しさ、月の光、ロマンチックな情景、悲壮感、それと行動様式自体の内面的な美しさとが完全に一致する。しかしこのような一致した美は人の一生に一度あることはおろか歴史の上にもそう何度となくあらわれるものではない」と記した。

この海軍士官こそ、殉忠菊池氏の流れをくむ熊本県山鹿市出身の松尾敬宇中佐(当時大尉)その人なのである。中佐は真珠湾攻撃に次ぐ第二次特別攻撃隊員として、遠くシドニー港の奥深く突入、壮烈な戦死をとげた。

中佐は壮途につく直前(昭和17年3月29日)、両親と兄姉を呉(広島県)に招き一夕を共にすごす。この時、父から贈られたのが前記の『行動学入門』に「日本刀をふりかざし‥‥‥」と記された伝家の
菊池千本槍(短刀に柄のついたもの)である。その夜、中佐は「俺はお袋と一緒に寝る」と母の懐に寄り添って床に就く。二十四年育て上げ、唯一筋に国に捧げまつろうとする吾が子の肌の温もりに、今宵が最後の夜を予感、春寒を遮るようにその五体をわが胸に引き寄せる母であった。

昭和17年6月5日の大本営発表によれば「帝国海軍部隊ハ、特殊潜航艇ヲ以テ、5月31日夜、濠州東岸シドニー軍港ヲ強襲シ、湾内突入ニ成功、敵軍艦一雙ヲ撃沈セリ。本攻撃ニ参加セル我特殊潜航艇中三雙未ダ帰還セズ」と。

この大胆不敵な作戦は濠州の人々の心胆を寒からしめたが、日本海軍軍人の忠勇武烈に深く感銘した濠州海軍は6月4日、松尾艇、翌5日に中馬艇(海軍中佐中馬兼四)を引き揚げると共に、艇内から収容した四勇士を6月9日、海軍葬の礼を以って弔ってくれた。

この時、敵国軍人に対する海軍葬について非難の声が挙がったが、シドニー地区海軍司令官ムアーヘッド・グールド少将は『勇気は一特定国民の所有物でも伝統でもない。これら日本海軍軍人によって示された勇気は、誰によっても認められ、かつ一様に推賞せらるべきものである。これら鉄の棺桶に入って死地に赴くことは、最高度の勇気がいる。これら勇士が行った犠牲の千分の一の犠牲を捧ぐる準備のある濠州人が幾人いるであろうか』と全国にラジオ放送して反対の声を制し、海軍葬を執行したのである。

戦後、濠州海軍は松尾艇、中島艇を切半して一艇とし、首都キャンベラのオーストラリア連邦戦争記念館に安置、御遺品と共に丁重に展示している。「この勇気を見よ!」と説明が特筆大書され、内外の参観者に大きな感銘を与えているとのことである。

昭和43年4月、中佐の母堂は濠州へ答礼感謝の旅に出る。83歳の老母は「訪豪に当たりて」の一文を草した。『昭和17年5月31日、貴国シドニー港内にて戦死いたしました松尾敬宇の母でございます。当時、戦時中にもかかわらず、世界に例を見ぬ海軍葬の礼を以て厚く葬っていただき、その上遺骨は日章旗で覆い、丁重に遺族へ届けていただいて、10月9日、鎌倉丸(戦時交換船)横浜に着くや全国民の感激はとても言葉に尽くせませんでした。(中略)ただ貧しい老いの身をかこちながら年ごとの5月31日は遥かに貴国を拝し、感謝合掌しておりました。この度はからずも、松本先生(地質学の泰斗松本唯一博士)始め多くの方々の御尽力を戴き、貴国を訪問、御礼言述べ得ますことは、こよなき喜び、かつ光栄に存じます。』

とつ国のあつき情けにこたえばやと老いを忘れて勇み旅立つ

母堂まつ枝刀自は会う人の全てを魅了する玲瓏玉の如きお人柄で、その上、素晴しい歌人でもあった。訪豪の十日間、“勇士の母”として濠州は海軍をはじめ朝野を挙げて、あたかも国賓を迎えるごとく歓迎した。

一行は中佐ゆかりの戦跡を巡るが、狭い湾口を見詰めた母堂は「よくもこんな狭いところを‥‥‥母は心から誉めてあげますよ」とつぶやき、湾内では戦死した6名の勇士の名を心に叫びながら、故郷の押し花、色紙と日本酒を海にまいた。湾内を見下す断崖からは、中佐の許嫁だった女性から託された和歌二首を記した紙片を海に投じた。その人の真情が母堂の手で手向けられたのである。中佐への何よりの供養であったろう。連邦戦争記念館では、中佐の御遺品の数々に涙を注ぎ、愛艇を撫でさすり、菊池神社の神酒と花輪を供えた母堂は、

愛艇を撫でつつおもふ呉の宿名残りおしみしかの夜のこと

と、吾子に添い寝をした最後の夜を回想する。そして館長からは、中佐が最後まで締めていた血染めの千人針などの御遺品が返却された。一行の行く先々に大勢の記者が待ち構えていて、新聞は母堂の各地での写真と詠歌をトップ記事で競って報道したため、濠州国民を感動の渦に巻き込んだ。

昭和55年(1980)1月24日、母堂は95歳の一生を終えた。27日の葬儀には、中佐の忠烈を讃え、母堂を慕う400余人が辺鄙(へんぴ)もいとわず全国から参列。オーストラリア大使館からの弔電をはじめ、霊前には数々の弔辞が述べられ、詩吟、和歌などが献詠されて、葬儀は3時間に及んだという。


戦争がどういうものなのか実際のところ私は知らないけど、すくなくともあったことについては教えようと思う。それに、じぶんがもしこういう事態にあったときには、身の処しかたについて参考にはなると思う。

立派です。実に立派です。
そして大変つらいであろうと思います。だからこそ知らなければとも思います。

20世紀少年

あるところにはあるモンで、この夏実家に帰ったら妹さんが用意してくれてました。
タイミング的にはちょうどいい時期。
雑誌で連載中はちょいちょい読んでたのに、飛ばすと意味がわからなくなる状況になってしまって断念。それをコミックスで一気ヨミという快感~。

話としては途中まではぐいぐい行くんですが、終盤にだれるダレル。
作品のテンションは高まってるんですが、読み手(ワタシ)がだれた。というかイライラの極地。
「ともだち」ってダレやねん!と怒り心頭。

映画化されるそうですが堂なんでしょうかね?
見ませんけど・・・。

浜松

嫁さんとコドモを岡山と明石の実家に送り込んだのが2週間前。
昼12:00に出発してSA/PAを物色しながら12時間!雷雨と稲妻の富士山麓・・・。
2週間の独身生活をエンジョイしてまいりましたが、昨日身柄の引き受けに行ってきました・・・。はっきりいって短かった。寂しさと自由の混沌・・・。もう終わってしまったのね。

いやぁ~いままでクルマに乗ってて大阪→岡山の運転がめんどくさいなどといってましたが、東京→岡山!やればできるモンですね!がんばって運転してみましたよ。最初はどんなもんやろかとカナリ心配してましたが、案外平気なモンでした。出張で死ぬほど新幹線乗ってるモンでどうしても新幹線には乗りたくなかったもんでね。(※新幹線に乗ると瞬間的に睡眠スイッチが入っちゃうモンで嫁さんとコドモには怒られるし)それにしても、高速道路はおもしろかったです。

行きははじめてだったのでどうかなぁなんて思ってましたが、帰りは楽勝!
東名の路面が結構ガタガタなのには参ったケド・・。
明石西(第二神明)→阪神神戸線→名神→東名で浜名湖PAで昼食。きっちり3時間!以外に速ぇえ~と感嘆!近畿周辺は慣れた道で時間を感じませんでしたがそれでもこんなに速いとは。
ただソコからが大変。
昨日は大雨で50km規制~。
っていうか、それ以上スピードだせん!
前が見えぬぅ~。
で、結局6時半ぐらいの到着。
神戸からなら案外疲れない。
行きはやっと「宝塚ぁ~今から岡山まで・・・。遠いなぁ・・・。」ってカンジでしたが、神戸→東京は割りトラクチン。

うん。クルマ便利!と実感。次回もやるで!今度は中央道!

ペキン

なんだかんだとオリンピックを見ています。さすがに時差一時間だと体に負担無く見れていいもんです。中学の夏休みの思い出がロス。高校の夏休みの思い出がソウルと、4年に一度の思い出(笑)その頃の室伏はオヤジ(シゲノブ)だった。ん~トシとったもんだ。

で、昨日見てたのはソフトボール女子。
基本的に女子の競技ってのはパワフルさに欠けるとこもあって出来るもんなら男子の試合を見たいところ。それでも今回は(前回も?)女子の活躍に目を見張るものがあって見てみようかと。
ソフトはね、宇津木監督が退いて昨日は解説をしてました。宇津木の名前も懐かしいところ。名物ですね。

それにしてもまぁすごいこと。
壮絶でした。
ただアナウンサーのボキャブラリーが陳腐で・・・。気迫とか執念のとかね・・・。もう、げんなり。
しゃべればしゃべるほどつまらなくなる。もう何もしゃべるな。
アナウンサーが絶叫するな。・・・アナウンサーが連呼したり絶叫したりしだしたのはいつから?だれがやりはじめたの?・・・なんかヤなんだよなぁ~。
それよりいっそしゃべるな。声にならずに嗚咽でもあげてろよぉ・・・。

ダブルヘッダーで312球。上野の頑張りは精神力だと思うけど、アナウンサーがエースを超えた!とかなんだとか言うたびにしらけます。
それにしても宇津木の解説は面白かったです。
まだ監督気分が抜けて無くって一喜一憂してるのが好感をもてました。
うまくやろうとか思わず、きちんと解説しようと思っても無い様子でただただ勝利を願って『イケェ――――!!!』なんて叫んでたもんね!一緒に応援してる気分でよかったですよ。
決勝は是非宇津木の解説ぶりを楽しもう!

vogue_hommes_japan_issue_1previewのコピー

満を持してのヴォーグ・オム。
いまんトコ、メンズ誌で眼を通してるのがHUGEぐらいなんで、コレはいいかもよ。
ただ、どのラインを狙ってくるかが微妙だねぇ・・・。
カブるんじゃない?
どうよ。

Edward Sylvester Morseのコピー

日本人はとても正直であるー1877年(明治10)6月下旬

人々が正直である国に居る事は気持ちが良い。私は財布や時計に注意しようとは思わない。
私は錠をかけぬ部屋の机の上に小銭を置きっ放しにするが、日本人の子供や召使は
一日に何度も出入りするのに触れてはならぬ物には決して手をつけない。
私のコートをクリーニングに持って行った召使は、なんとポケットの一つに入っていた小銭に気付いて
すぐに戻ってきたのである。また次の時にはサンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って戻ってきた。
この国民も、いわゆる文明人としばらく関わっていると盗みを働く事があると聞くが、
内陸では不正直な事はまず無い。条約港においても同様である。日本人が正直である事の最大の
証拠は、3000万人の国民の家に錠も鍵も閂も、錠をかける戸さえも無いという事実である。
昼間は、すべる衝立が唯一のドアであるがそれも10歳の子供でも引く事が出来、
或いは穴をあける事が出来る程弱い構造なのである。

Beijing2008のコピー

それにしても盛り上がってますな。
政治的どうよ?っておもってたのにかなり封じてきてる様子・・・。
それでもウイグルでは反抗してるようですが。

こうして黙認するようなノリでやってていいのか?
という疑問。
どうやったところでどうにも変らんのだろうけど、これから中国を見る目が変るのはたしかなんで・・・。

あぁ・・・なんかね、なんかいやな感じがねぇ 有るんですよ。まだ。
なんかあるんじゃないかという不安感が。



グルジアの件についても基本的に何も出てこない。
いやぁな感じ。

柔道のコピー

オリンピックの競技で割りと早いうちにある柔道。
何でかは知らんがずっとそういう感じ。
で、ワタクシ的にはこの柔道でぐぐぅ―――――っとナショナリズムに目覚めさせられるカンジ。
不振なのかこんなもんなのかはよくわからないけど、日本発祥のスポーツだからといって日本が盟主でいられるわけではないことはずっと前からよくわかってること。
ただ最近の柔道はなんだかおもしろくなくなってきててその際たるものが谷亮子の準決勝の試合だったのかもしれない。

8月13日8時1分配信 スポーツ報知

 ◆北京五輪 柔道女子63キロ級(12日・北京科技大体育館) 谷本が、歴史に刻む連覇達成だ! 柔道女子63キロ級の谷本歩実(27)=コマツ=が、オール一本勝ちで前回アテネ大会に続く2大会連続の金メダルを獲得。決勝でドコス(フランス)を豪快な内またで倒した。柔道女子での五輪V2は、48キロ級の谷亮子(32)以来、史上2人目の快挙。10日の男子66キロ級・内柴正人(30)との“アベック連覇”で日本柔道に2つ目の金をもたらした。

 笑顔のV2だ。アテネ以降3戦全敗のライバルとの決勝。1分26秒。谷本は相手の大内刈りをすかし、内またでぶん投げた。ぼう然とするドコスの横で、両手を上げて何度もガッツポーズ。「うれしいの一言に尽きます。一本を取る柔道が貫けてよかった」。満面の笑みで会場の声援に応えた。ドコスは70キロ級へ階級変更するため、これが最終戦。「不思議な気持ちだった」表彰式で君が代が流れると、今度は涙がほおを伝った。

 4年前のアテネ五輪。5試合を合計5分足らずで相手の棄権1試合を挟み、すべてを一本勝ちというド派手な柔道で頂点に立った。今大会も4戦オール一本勝ちだったが、初戦の2回戦から準決勝までは寝技で決めた。「やってきたのは一本を取る柔道。寝技も練習してたから実になってよかった」。昨年から続く腰痛で、決して万全とは言えない中での連覇達成。五輪女王は堅実な戦いも身につけ、ひと回り大きくなって五輪に戻ってきた。

 アテネで歓喜の抱擁を交わしたバルセロナ五輪金メダリストの古賀稔彦氏が、05年で強化スタッフを離れた。「自分の柔道が止まってしまう」心配していた谷本に1枚の色紙が届いた。「これからは一人でもやる」「もう一花咲かせよう」そしてひときわ大きな文字で「磨け」。恩師の言葉に涙が出た。

 アテネ後は結果が出せずに苦しい時期もあった。「もう柔道ができないかも」と思うほどの腰のけがもあった。それでも周りの助けも受けながら一人で乗り越え、この日、真の女王になった。

 力をもらった。10日に初めて試合会場を訪れると、目の前で内柴が連覇を達成。「勝つべくして勝つ選手を見た。すごい勇気づけられた」。さらに選手村で同部屋だった谷も、息子の病気で緊急帰国する際に窓の外から「頑張って」とエール。「グッときちゃった。走って追いかけたけど、間に合わなかった。でも一番のパワーをもらいました」。銅メダルに終わった谷の無念も晴らした。

 V2で記録の上では谷に並んだ。それでも尊敬する大先輩。「まだまだです。(谷の)記録を超える? とんでもない」と謙遜(けんそん)した。ふと、金メダルに目を落としニッコリ。谷本には笑顔が一番似合う。


という記事がありちょっと溜飲を下げた。
柔道が柔道じゃなくなってしまったんでは面白みにかける。

世界のJUDOは、組まず組ませずに徹し、ポイントを稼ぐ戦術に傾いている。アテネ後、谷本の正攻法は研究し尽くされ、海外では簡単に勝てなくなった。

 今年の5月半ば、小学生時代から通った愛知・大石道場を訪れ、関係者にこう尋ねている。「私の柔道は間違ってませんよね」。北京で示すべき答えを、言い聞かせるようでもあった。

 アテネは5連続、北京も4連続の一本勝ち。「一本を取る柔道を貫いてよかった」。谷本の勝利は、日本柔道の勝利といっていい。


でね、思ったんだよ。
世界の柔道がどう変わろうが日本は悠然と一本とる柔道をすべきだと。
誇りを持ってやるべきだと。


Kano_Jigoroのコピー

果たして柔道はこれからどうなっていくのかなぁ・・・。
変わり果てた柔道じゃぁ嘉納先生もたまらんよ。
それでも今回の大会で驚いたのは、内柴の試合の主審。ラシュワン!おおぉ~ラシュワン!
あなたですか!
ロサンゼルスオリンピック決勝で負傷した山下の脚を狙わず準優勝に甘んじたオトコ。
泣いたです。
思い出して泣いたっス。

大西瀧治郎のコピー

『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
 一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
 二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族は再興するであろう、ということである。(後略)』

大西瀧治郎中将特攻作戦の真意

北島

北島すげぇな~なんて観てましたが、インタビュアーが台無しにしたねぇ・・・。
なんかテレビのソコの浅さというか、浅はかさがよくわかりました。

4年前のチョーウレシーをもういっぺん言わしたいようなんですが、水向けて前振りしてしゃあないからって気遣って言わせて、その瞬間のそのキモチをくみ上げることもできず「こう言わしましょ!」みたいな企画書のスジ書きのためにコメントをとる。
なんてどうしようもないジャーナリズム。
これはジャーナリズムでは断じて「ない」!

北島の口からは言葉にならない何かが溢れていた。
ウレシーなんていってるまだ怖いもん知らずだった4年前からは成長し、不調や低迷と戦って克服してきた北島の全てがあったのに台無しにした。
コドモのようにはしゃいでいた4年前からは、勝負の恐ろしさや記録にかける意気込み、今までに行ってきた練習への自信と不安、すべてがあのころとは違うのに・・・。

北島が涙をぬぐいながら「言葉が出ない」といった、そんな状況で何も考えずテレビのお約束みたいなものを言わしてしまうテレビ局はもうだめだ。

他の競技についても同じようなモンで、テレビ局はスポーツの純粋性をことごとく壊してるなぁ・・・。
なにかドラマでもわざわざ仕立て上げたいかのようだ。
それぞれのドラマについては、その前か後の総集編ででもすればいいのに。
うんざりしています。
失望しています。
で、そんな流れに乗っかってるコメンテーターはよく考えたほうがいいよ?

Biomech Stainless Steel Articulated Arm

「永遠」のカラダみたいなものが「キカイのカラダ」として銀河鉄道999で登場。
それ以前にもサイボーグ、人造人間、改造人間として石の森章太郎系では見てたんだよね私たちは。で、こんな人もいる。

ニューヨークに拠点を置くアーティスト、Christopher Conte氏は、義肢の設計を行なうほか、アマチュアのロボット技術者でもある。同氏は、バイオメカニクス(生体力学)を応用した精巧なオブジェを作成するマシニスト(機械主義者/機械工)。制作時には、めったに設計図やスケッチを使用せず、もっぱら自らの想像力を頼りとしている。

「作ってみたいものが頭の中に鮮明なアイデアとして浮かぶので、それに合わせて部品の調達を始める」と同氏は説明する。「私は古くなった部品を大量に持っているので、レゴで遊ぶようにそうしたものをいじっていると、たいていの場合、どのように組み合わせるかアイデアが浮かんでくる」

Conte氏の発想の源は、19世紀末から20世紀初頭にかけての技術や日本のブロンズによる作品だが、刺激を求めてB級のSF映画を見ることもあるという。「映画の中で気になるものを見かけると、『もしこれが存在したら素晴らしいのでは?』と考え、現実にしようと試みる」と同氏は言う。

ステンレス製バイオメカ多関節アーム
ステンレス鋼と真鍮製の部品を機械加工してできたオブジェ。この多関節アームは、人間の骨格構造に関する解剖学の知見をベースとしている。

この作品『Biomech Stainless Steel Articulated Arm』(ステンレス製バイオメカ多関節アーム)を2006年に制作する際に、Conte氏が制作の原動力にしたのは、自分の職歴と、8歳のころから胸に抱いてきた少年時代の夢だ。

「私は子供のころからロボットアームを作ってみたいと思っていた。もし義肢を使うことになるのなら、このようなものがいい」と同氏は語る。


NARUTOでも「暁」のサソリは自らの肉体を傀儡化してたりで、日本人はそういう概念ではかなり進んだ意識を持ってるようだ。(?)
でも、やっぱりナイーヴなところがあってこういったモノが現実的にはお目見えしない。
こういうのを平気でやるのは欧米人。


金子國義

どうも最近酔っ払うことが多くって、弱くなったなぁ・・・。と嘆いてみたり。
ネタ的には最初はいいんだけど、深夜になるとネタに困ってシモに走るようです。
気をつけないとね。
イイトシしてんだから。

万華鏡写輪眼

いよいようちはマダラの秘密に―――というわけで、
うちはマダラの万華鏡写輪眼。
うちはマダラのはちょっとトクベツ。ほかのとはちがうから覚えておこう!

サスケとイタチの対決も終わり、サスケの目標が大きく変わってしまうんですが、コミックの流れが大きく転換する前にワタクシの「ヨミ」でもご披露しておこうかと思います。


(※このページは43巻からではありません。マダラの万華鏡写輪眼がわかるようにほかから持ってきました。)

最終的にストーリーが完結したときに「俺は読みきっていた」状態を言いたいだけなんで、外れても知らんぷりしますけど(笑)

最重要なコトは、トビ=マダラ となったものの「マダラ」はホンモノか?ということに尽きると思いますよ。ストーリー的にはダレがこの「マダラ」と対決することになるのか?がミソ。たとえば「トビ=オビト」説もまだ消えてはいないんですが、そうであれば「マダラ」と対決するのはカカシでしょう?ほんとにマダラであれば、「マダラ」と対決するのはサスケでしょう?

話のキーににってるのはいくつかあって、トビ=マダラがいまだに左目を隠している点。ワタクシ的にはマダラが年齢的に生きているはずがないと思っているので、これはトビ=オビト=マダラ説になる。輪廻眼の秘密はまだ語られていないことがポイントで話の流れ次第でどんな威力を持ってくるか読めないのもあるんですが、少なくとも名前のとおり輪廻=生き返らせる力があるのでしょう。

とすると、カカシにあげたオビトの左目には輪廻眼が入っているのでは?
と思ってしまうわけです。そ―――すると死んだオビトのカラダにマダラを入れる?様なことも可能かと・・・?どうよ?

あと、マダラの眼はずっと万華鏡写輪眼のはずなのにトビの眼は普通の写輪眼だしね。
マダラが生きている説はちょっとありえない。
まぁこんな具合よ↓

middle_1207905078のコピー


な?マダラの眼が普通の写輪眼でしょ?
弟の目をもらってから永遠に万華鏡写輪眼になったんでしょ?

そのあたりのそれを裏付けるのが自来也が突き止めた「ホンモノはいない」というメッセージに帰結するかなぁ・・・。ペインの実体がない理由になりそうな予感。

さらにストーリー的には自来也も輪廻させられちゃうのでは?などと思ってしまうわけです。
自来也の死体はあがってないしね。
ストーリーとしてはNARUTOは最終的に誰と闘うのよ?という設定にはペイン化した自来也というわけですな。(ほかの複線については考えないでいると)

まぁ、そんなことを考えて楽しんでいるわけです。
43巻も楽しかったですよ。
カバーの絵がちょいちょいテイストがかわっててイヤなんだけどね。
細いペンのほうがいいよね。

横向きのコピー

鬼のように焼けた・・・。
迂闊だったデス。海ではあがるたんびにUVしてたのにも関わらず、こないだの九十九里はあまりにも風が強く、砂まみれになったのでそれを嫌って怠ったのがこのザマ・・・。

ひげ&ロン毛のワタクシとしては焼けちゃうとラスタファリアン風になってしまうのだ。
あ~イヤだ。イヤだ。
とにかく小汚い・・・。醜いデス。
海だけなら焼けててもかまわんかなぁ~とも思うのですが、ボクの日常は殆どオフィス街。
海なんか8日/365日ぐらいの割合なのになぁ・・・。

とはいうものの海では焼けてるほうがカッコイイ。
逆ナンしてるのをはじめてみました(in九十九里浜本須賀海岸)
僕も若けりゃぁとか言わない。プカプカ浮きながらニヤニヤ見てました。

それにしても本須賀海岸には海の家が4つほどあって、一番左端(海から見て)の看板娘さんはきれいでした。と、ウチの奥さんも言うのですがへそ曲がりなワタクシは「海で見るからかわいいの。街で見たらヤンキーじゃん」と心にもないことを言ってしまいました。
この性格どうにかならんもんか?

にゃロメのコピー

亡くなられました。
残念です。
特にファンだったわけではありませんが、バカボンなんかは何度となく再放送で見ましたモンで・・・。
私に影響を与えた一人になるのではないかと。

 「おそ松くん」「天才バカボン」などの作品で人気を集めたギャグ漫画家、赤塚不二夫(あかつか・ふじお<本名・藤雄=ふじお>)さんが2日午後4時55分、肺炎のため死去した。72歳。葬儀の日取りは未定。自宅は東京都新宿区中落合1の3の15。喪主は長女りえ子(りえこ)さん。

 赤塚さんは1997年12月に自宅で吐血し食道がんであることが分かり、98年3月に記者会見で公表した。摘出手術を受けた後も急性硬膜下血腫などで入退院を繰り返す。02年4月に脳内出血を起こし、入院が続いたが、親しい知人の見舞いは受けていた。06年夏、看病していた妻眞知子さんに先立たれた。関係者によると、最期は病院の集中治療室でりえ子さんらの呼びかけに目で応え、息を引き取ったという。

 35年、旧満州(現中国東北部)生まれ。45年、引き揚げ後は奈良、新潟で育った。手塚治虫にあこがれて漫画家を志望し、中学卒業後の54年に上京、工員として働きながら漫画の投稿を続けた。このころ石ノ森章太郎の同人誌に加わるとともに、若い漫画家が集まった東京都豊島区のアパート、トキワ荘に移り住んだ。

 56年「嵐をこえて」でデビュー。一昨年、漫画家生活50周年を迎えた。62年に「少年サンデー」に連載し大ヒットした「おそ松くん」は、秩序を破壊するスピード感のあるナンセンスな笑いで、新しいギャグ漫画の世界を切り開いた。その後も「もーれつア太郎」「ひみつのアッコちゃん」「天才バカボン」などヒット作を連発した。

 65年「おそ松くん」で小学館漫画賞、97年に日本漫画家協会賞文部大臣賞。98年に紫綬褒章受章。03年、東京都青梅市に「青梅赤塚不二夫会館」が開設された。07年、「天才バカボン」誕生40周年記念でベスト版が刊行された。

 東京都新宿区の赤塚さんの自宅兼事務所には、午後11時過ぎ、同区内にあるジャズクラブ「J」の経営者のバードマン幸田さん(62)が駆けつけた。タレントのタモリさんとの共同経営の店で、赤塚さんがよく訪れていた。幸田さんは「信じられない。赤塚さんには助けられた。こんなにいい人は他にいない」と声を詰まらせていた。


「賛成の反対なのだ」というせりふはワタシテキには哲学の目覚めであったかと(笑)

あと気になるのは、今シーズンのコムデギャルソンの一連の赤塚シリーズのプリントものの行く末。
こういったシリーズは世間的にどう扱われるのでしょうか?



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