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涼月

1939年(昭和14年)度第四次海軍軍備充実計画(マル4計画)による乙型一等駆逐艦の第106号艦。1942年(昭和17年)12月29日に三菱重工業長崎造船所で竣工。竣工後は第61駆逐隊に編入され艦隊護衛、船団護衛、輸送任務に従事した。1944年(昭和19年)に2度被雷。そのためマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦には参加できなかった。

1945年(昭和20年)の坊ノ岬沖海戦には「大和」の護衛として参加。艦橋前に150kgと推定される爆弾1発を受け損傷し、低速後進[5]で佐世保に帰着する。完全復旧は断念され応急修理を施した上で佐世保相の浦に係留、陸上より電気を引き第3砲塔を使って防空砲台となった。佐世保が空襲された際にP51を1機撃墜している。

戦後は損傷のため復員輸送に使用されず1948年(昭和23年)に解体。船体は「冬月」「柳」とともに北九州市若松港の防波堤としてそのまま活用され、地元では軍艦防波堤と呼ばれた。

本艦は3度の被害にあったがいずれも生還し秋月型駆逐艦の中で1番の長命となった。片桐大自は「雪風とまた違った意味での武運艦」と評している。


爆弾が命中、艦首をもぎ取られた涼月は、必死の応急作業を行いつつ、後進で佐世保に帰投しようとする。

(前略)
佐世保まで9ノットで18時間。その間を、後進で、逆向きに、人力で舵を操りながら、爆弾の破口からは、まだ煙を出しながら、すこしもくじけず、元気な360人が、「フネを沈めるな」を合いことばに、がんばった。

とうとう涼月は、佐世保に着いた。
「入港用意」のラッパが涼月で鳴った。先着の冬月、雪風、初霜がそこにいた。再び見ることはあるまいと覚悟を決めていた故郷の春の緑が、涼月の乗員達の目にしみた。しかし彼らには、それを見つめる余裕はなかった。ブイにつなごうとしたとき、急に、船脚が深くなりはじめたのに気付いた。艦が沈みかかっている!

港務部や、工廠から、曳船が、サイレンを吹き鳴らしながら、全速力で駆けつけてきた。そのうちの一隻は、Uターンして、ドックの扉をあけに戻った。一分一秒が貴重だった。船が精根つきかけていた。3隻の曳船が、1隻は艦尾を、2隻は両舷から涼月を横抱きにして、強引に、扉を開けたドックに引っぱりこんだ。涼月がドックにはいるやいなや、すぐ扉をしめ、急いでドックの水を排水しはじめたが、涼月は、もうそのときには、ズズズズとドックの底にすわりこんだ。水がかい出されるわずかな時間が待ちきれず、ドックのなかで、がっくりと沈没したのだ。

「感動しました。われわれもがんばったが、フネもがんばってくれたんです。 フネも生きているんです。われわれのなかまなんです。われわれ駆逐艦乗りにとって、 フネと人は、一体なんです。 やったなあ、涼月。すごかったぞ。水がかい出されたあと、私は、ドックの底に降りていって、 フネの横腹を手でたたきました。下士官が4、5人、同じようなことをやっていました。きっと、私と同じことをいっていたのでしょう――」
鴫之沢砲術長が、目をうるませて、そういった。

砲術長はそのあと、艦内を調べていたとき、一番砲の弾薬通路の左舷側、水線下にある一へやに、下士官、兵長、兵の3人がたおれているのを発見した。見ると、そのへやは、丸太で隔壁をささえ、カスガイを打ち、完全に海水を防ぎとめてあった。砲術長は、電気にうたれたように、その3人の遺体にむかって、頭をたれた。涼月は、前に10度傾いていた。それ以上、前部が沈下すれば、沈没はまぬがれなかった。この3人は、最後までこのへやの空間を守って、浮力がそれ以上減るのを、身をもって
防いでくれていたのだ。

アメリカ海軍は、田中司令官を、負けじ魂の駆逐艦乗りとたたえた。しかし駆逐艦乗りの負けじ魂は、人だけのものではなかった。人も艦も一体だった。涼月が、それを証拠立てた。そしてそれは、涼月この3人の乗員たちのような、駆逐艦乗りらしいめいめいの判断と献身とでささえられていたのであった


『壮烈!水雷戦隊』
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