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ヤロミール・ヤーガーはチェコ出身のNHL(アイスホッケー)のスーパースターで背番号は常に68番。
68といえばプラハの春。
そういう選手がいるのを覚えておけばいいです。

ヤーガーの幼年時代について。プラハ近くの小さな工業都市クラドノで、3歳の頃に凍った池で初めてホッケーを体験。両親が彼を毎週冬の間はスケートに連れていったため、子供のうちからスケートは歩くのと同様不自由しなかった彼は、いつも年上の子供たちに混じってホッケーを習うという「とび級」の連続。14歳で北米でいえばメジャージュニアにあたるリーグに加入してしまった。通常は年齢制限というルールに屈するところだったが、ヤーガーの父が自分のコネを駆使し、チェコ国内のスポーツ医学の権威者に診断書を書かせ、リーグ担当者をねじ伏せてしまったというのがスゴイ。

 父もそうだが、母もかなりの「ホッケーママ」という親バカぶり。だがヤロミール・ヤーガーという男はこれを恥じるどころか「そうした教育熱心な両親は子供にとって必要だ」と熱弁をふるっている。このあたりが北米の「子供の自主性に任せます」的建前論と一線を画すところである。実はヤーガーの父もホッケーをやっていたが、17 歳の時に家庭の事情と膝のケガ、国家の政治的影響などでホッケーを断念せざるを得なかったという。自分の夢を達成できなかった夢を息子に託し、ホッケーにできるかぎりの時間にお金と努力を注ぎ込んでいた父の存在もあって、天才ぶりを発揮していたヤロミールは他の子供や親からの嫉妬と羨望の対象になった。「いつもあの子は賞をとっているから別の子供にやろう」と他のコーチから言われることも。またチーム最年少であるがために一番身体も小さく「父親が一生懸命になりすぎてあの子を壊すつもりかね。あんなハードなトレーニングで成長が止まってしまったんだよ」と陰口を叩かれたこともあったという。

 ただそんな陰口を叩かれても不思議でないほど、ヤーガーのトレーニング内容は星一徹もマッツァオな激ハードなものだった。子供のうちからスクワット2000回、腕立て伏せ100回を日課にし、毎日のトレーニング状況を日記につけていた。また自宅から5マイル離れた農場まで父親が自転車で通うところを、息子は父についてランニングしていたという。農作業で干し草を持ち上げる動作で上半身が鍛え、急な坂を自転車のローギアで20回往復することで耐久力がついた。また13歳の頃には、父が溶接して作ったお手製ゴールでシュートの練習を開始していたという。

 そんな教育論について、ヤーガーはスコッティ・ボウマン(かつてピッツバーグ・ヘッドコーチ、現デトロイト・ヘッドコーチ)、バリー・スミス(かつてピッツバーグ・アシスタントコーチ、現デトロイト・アシスタントコーチ)らと論議を交わしたことも明かしている。「自分の息子はいい選手なんだが、親が世話を焼いて教えるのはみっともなくってね」と語るスミスにヤーガーはこう反論した。「小さい頃は親の監視と激励が必要だ」なぜこういう練習が必要なのか、子供はいずれ理解する日が来る。だがそれまでは理解していない子供には、無理強いをしても厳しく練習をさせる必要がある。それがヤーガー流教育論なのだ。

 こうした本音トークは、NHLに進んだ後のエピソードでも続いている。なかでも彼の親友マーティン・ストラカにまつわる話は興味深い。92ー93年からピッツバーグに加入したストラカだったが、チェコでの所属チームとの移籍問題が長引き、ピッツバーグ合流が遅れたため、すんなりチームに馴染めなかった。そのため試合にあまり出番がなく、ファーム送りにされたことも。それを知った怒り心頭のヤーガーは(「この時には既に、僕の年俸はマリオに次いでチームで2番目となっていた」と囲みで注釈されているのが笑える)コーチを召集して文句を言った。コーチたちは「今の状況では彼のプレー時間が1軍ではないんだ。でも誰かがケガしたら彼にチャンスが回ってくるから」となだめたが、ヤーガーはこう切り返した。「僕の膝がちょうど痛んできた。プレーできないと思う。マーティンが僕の変わりにプレーしてくれればいい」コーチたちは開いた口が塞がらなかった。

 だがこのヤーガーの抗議が効いたのか、しばらくストラカは1軍に残留することになったという。このストラカがトレードでいったんピッツバーグを去った時は、泣きじゃくったことで知られるヤーガーだが、ストラカが去った後、GMパトリックには「またチェコ人選手を獲得してくれ」と口すっぱく言っていた。そのヤーガーの口撃が耳にタコ状態であったGMパトリックはかなりのイライラ状態だったというが、結局ピーター・ネドベド獲得に成功。「ネドベド獲得には僕が一役買ったんだ」と無邪気なヤーガーはこの本の中で誇らし気に語っているが、GMパトリックの心中を察すると少々気の毒にも思える。

 NHL通念的には、たとえチームのスーパースターといえども、ひとりの選手がチーム人事に口を出すことは御法度とされている。あるいは実際にこうしたことが通例として行われていても、チームの立場としては外部には漏らしたくない内容だ。LAでブルー・マクノール(注:現在も詐欺罪などで服役中)がオーナーだった時代に、グレツキーとマクノールの友好関係ゆえに、グレツキーがチーム人事に口を出し過ぎと批判された時期があった。こういうニュースが伝わると、その選手はエゴイストというレッテルを貼られてイメージ低下に繋がるし、チームフロントとしてもその意思決定力の弱さが嘲笑の対象となるだろう。

 実際これに似た状況が今季も起こっている。いわずと知れたイワン・フリンカコーチ招聘である。GMパトリックに直接話を聞く機会があったが、ヤーガーがフリンカのことを売り込んだという説をGMパトリックは否定している。フリンカ就任はGMパトリックにとって「あくまでも私の決定」であり、「(インターナショナルホッケーにも詳しい)私がフリンカの実力を知っているから」というのがその理由である。ただしマリオ・ルミューに話を聞いたところ、ヤーガーがマリオにもフリンカを売り込んだことをあっさり認めてしまったのだから、GMパトリックとしてはちと立つ瀬がない。

 だが天衣無縫なヤーガーにとって、そういう政治的かつビジネス的軋轢は「どこ吹く風」だ。それが共産党政権がチェコ国内を支配していた時代、自分の成績表ファイルに「自由の象徴」としてレーガン大統領の写真を貼っていたという自由人ヤーガーのスタンスであり、チームもそうしたヤーガーの個性を支持、あるいは少なくとも黙認している。というのは、この自叙伝はペンギンズが主体となって通信販売を行っていたものであり、チームにとって具合の悪い内容は検閲可能な気がするのだが、結局そうしたことは行われていない。かくしてヤーガーは自由の国アメリカで、表現の自由を楽しんだわけだ。
 
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